カトリック教会では、11月2日が「死者の日」とされていますが、この日だけでなく11月全体に影響を与えます。お墓参りとか、亡くなった家族の方がたや修道会員、友人、その他を思い起こし、つながりを確かめ、祈りを捧げることがよくおこなわれます。
ミサ典礼と修道者が唱える死者の日々の祈りには、わずか8節の「詩編130」が必ず取り上げられます。その始まりの「深い淵の底から」(ラテン語ではもっと短くて「デ・プロフンディス」)は印象深いものです。いまでも私の記憶に刻まれているのは、修練院で、他の多くの修道院のように、夜の9時にベルが鳴ると、皆その場で、ひざまずいてこの詩編を静かに祈って、「大沈黙」に入ったことでした。

「深い淵の底から」という「詩編130」は、きわめて危険な状態、特に、死のときを思い出させる祈りであることが感じられます。その危険は例えば、大海から大津波が押し寄せてくるのを抑えきれないようなものです。絶えられない苦しみ、情けない悲しみ、犯した罪と過ちのために心がむしばまれる恥、そして、典型的な、死の状態を思い起こさせるその時に、「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と、祈り始めるのです。そして、「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(2節)。

この詩編の主なメッセージは、ここから始まります。神の慈悲深い心は、罪と死のときこそ作用します。「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(4節)。結果として、「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます」(5節)。最後に共同体に呼びかけて終わります。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに…」(7節)。

なぜ教会はそんなに死のことを思い出させるのでしょうか?
確かに、恐怖感を起こさせるためだけならば病的でしょう。が現代のように、潜在意識の中に死への恐怖が働いているので、死はタブーになっています。これこそ病的だと思われます。愛する人との別れや自分自身の場合に、死の事実は私たちの甘やかな気分を激しく揺さぶります。司祭として何回もそれに出会いました。しかし幸いなことに神の力に強められて静かに死を迎える方が多いことも事実です。

数日前に、信者である親しい上智大学の卒業生のお母様(信者ではない方)が、6年間闘病なさっていて、急に悪化したので一緒に祈ってほしいと言われ、急いで東京の病院に行きました。どうすれば良いかわからなかったのですが、『祈りの友』の中に「臨終の枕辺にあって」という素晴らしい祈りを見つけました。しっかりと落ち着いた状態のその方のために、ゆっくりと祈りを唱えました。その中に、このような言葉がありました。

「この姉妹が、人のために流した汗のひとしずくをも、あなたはお見逃しにはなりません。彼女が人のために運んだ足の歩みを、あなたはすべて数えておられます…。あなたは、彼女が人のために果たした愛の行いのひとつを、ご自分になされた行いとして、受け取ってくださいました…。いま、あなたのみ前に立とうとする○○○さんに、裁く者としてではなく、優しい父としてのみ顔を見せてください…」

祈りが終わりますと、お母様は静かに心からの感謝をしてくださいました。もう思い残すことはありませんとおっしゃって、五時間後、平和のうちに旅立たれました。

2008年11月1日
主任司祭 ハイメ・カスタニエダ