この非常に古い122詩編の身の引き締まるような言葉を聴きますと、主日に教会に行くときに、自分も同じような気持ちになれたら何と幸せなことでしょうとつくづく思います。
この詩編はいつ、どこで歌われたのでしょうか。
122編のタイトルによると「都に上る歌」となっているので、ユダヤ人たちがエルサレムを巡礼するときの御詠嘆のようなものだったのでしょう。歩きながら皆と一緒に歌うと、長い道のりは、あっと言う間に短くなる気がしませんか。続く言葉はそうほのめかしているようです。

「エルサレムよ、あなたの城門の中に わたしたちの足は立っている。」(122編2)

なぜエルサレムはそんなに素晴らしい所なのかとの問いに、答えがこのように返って来ます。

「エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。」(122編3・4)

つまり、エルサレムは神の民の元々の家であるからです。そうして神の民というのは、時間が経つにつれ、すべての人を含む民だということが理解されるようになりました。たとえば、「シオン*について、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」(87編5)

そしてまた、エルサレムの役割は礼拝するだけではありません。

「そこにこそ、裁きの王座が ダビデの家の王座が据えられている。」(122編5)

この主の家に足を運ぶ目的は、ただすべての人の父である神の家で、皆、神の子として一緒に神に感謝し、祈りをささげて礼拝することだけではありません。都であるエルサレムでは、裁きの場であって不正な状態を正し、正義をもたらすことも必要です。
エルサレムという言葉の意味は二つの言葉から、エル(町、都)、シャーロン(平和)となっているそうです。そのような訳でこの詩編の第一部は、都として取り上げられていますが、第二部は平和がテーマになります。平和(シャーロン)は、ただ争いのない状態をいうだけではありません。おだやかな充実した状態、健康、豊かさ、心の平静など、つまり充実した幸せな生活を送るための必要なことをすべて含んでいるのです。

「エルサレムの平和を求めよう。あなたを愛する人々に平安があるように。」(122編6)

エルサレムばかりでなく、この世界は平和の場所でなければなりません。皆、一人ひとりと、すべての社会と国は平和を求めねばなりません。けれども人間の努力だけでは足りません。神の助けを祈らなければなりません。

「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。"あなたのうちに平和があるように"。わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。"あなたに幸いがあるように。"」(122編8・9)

もし、わたしたちもこの心構えでミサをささげるために教会に行けるならば、なんとうれしいことでしょう。自分を取り巻く狭い世界から離れて、父なる神の家の家族の一員として心を合わせて感謝し、全世界の正義と平和を求めて行けば、この詩編の言葉はかならず実現されます。

2009.2.1
主任司祭 ハイメ・カスタニエダ

*シオン:ダビデはこの名の丘の上を「ダビデの町」と呼び、後にはエルサレムと呼ばれました。そしてこの都は、よくシオンの名でも知られるようになりました。