四旬節第3主日には、御復活に向けての心の準備として『イエスは神殿から商人たちを追い出す』と言うエピソードが挙げられています。共観福音書(内容や構成に一致点が多く、相互に参照が可能なため、こう呼ばれているマタイ・マルコ・ルカの三福音書)では、イエスの宣教活動の終わり頃の逮捕を口実の基に置かれているようです。今年(B年)のヨハネ福音書には、イエスが活動を始めるにあたり、ご自分の生涯、特に受難と十字架上の死と復活によって目指していることは何かと言うことが暗示されているようです。つまり、イエスがなさろうとしているのは、全世界をすべての人々のために真実の祈りの神の家にするということです。
神殿から商人たちを追い出すこの出来事は、確かに当惑させられる話です。「柔和な人々は幸いである」と「わたしは柔和で謙遜な者だ」(マタイ5・5 と11・29)とおっしゃった方は「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2・16)と厳しい言葉を使うばかりでなく、暴力にも訴えるというのは、あんまりではないでしょうか。確かに、ヨハネの話ではその身体的な力はある程度抑えられているようです。たとえば、鞭は、皮ひもや金属ではなく、軟らかい縄で作られたことや、ご自分で追い出した牛と羊と違って、貧しい人々が捧げる鳩を売る者たちには、ただ「その物を運び出すように」とおっしゃったことは、ご自分を抑制なさっていらっしゃると言えないこともありません。また、このイエスの行為は、以前には何回も行われた「預言的な行為」であったことも確かです。イザヤ(20・2)は、エジプトに追放された人の悲惨な状況をまざまざと思い出させるために、裸、はだしで三年間歩いたことや、エレミヤ(27・2)は、エルサレムの破壊を予知したために首に軛(くびき)をつけたことなどがあるように、イエスにもどんな「主の日」が来るかを預言していたのではないのでしょうか。なぜかと言うとゼカリヤ書(14・1と21)に、こう書いています。「主の日が来る。… その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」と。ついでにイザヤ(56・6−7)は次のことも預言しています、「主のもとに集って来た異邦人は… わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なる…」と。弟子たちはイエスが何をやっておられるかが、当時は分からなかったのです。ただイエスの激情をみて「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という詩編(68・10)の言葉がかれらの心に浮かんできました。
イエスは、宗教を金儲けのために利用して、神との祈りよりも金を大事にする有様を見て耐えられませんでした。ご復活後やっと彼らはその深い意味を悟りました。しかし一方では、イエスは神殿の建物とか場所とか、動物のいけにえとか、にぎやかな祭りには全く興味をもっていませんでした。少し後のサマリアの女との話の中で(ヨハネ4・21・.23)イエスはこう述べます。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。… まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」神様はどこにでもいらっしゃる。人間はだれでも神の霊に清められ、導かれて、誠実を持って、真心をこめて祈ろうとすれば、何処ででも神はその祈りを聞いてくださるのです。

福音書(ヨハネ2・18-21)に戻りましょう。イエスに反対する人たちは、商人たちを力でもって追い出したことを見て、怒って「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言いました。イエスの答えは不思議な答えでした。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。そして、ヨハネの説明として「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」。イエスの体と神殿(神の家)との絆を簡潔に確立されています。御一人子がイエスという人間となった時からこの世には特別なかたちで神様がいらっしゃることになりました。たとえば、幼子のとき、青年のとき、大工の仕事をなさったとき、教えたり奇跡をなさったりしたとき、そして十字架上で苦しまれたイエスはご自分の体、ご自分の血、ご自分のいのちを私たちの救いのために、いけにえとして捧げられ、霊と真理をもって、神の礼拝を行われました。

しかしイエスの体は、甦えられる前には、私たちと同じように、ある具体的な場所に限られていましたが、今は、復活なさった栄光のキリストを通して誰でも、どこでも、父なる神に出会うことができるようになりました。誰でもどこでもと言っても、特に恵まれた場所と時があります。ご聖体を授けるとき、司祭は「キリストの体」と、一人ひとりに宣言します。どんなところで行われる感謝の祭儀(ミサ)でも、一人ひとりがキリストと互いに固く結ばれて、皆はイエス様と一つになるのです。イエスの復活は、パウロが書いているように、もう一つ素晴らしい結果をもたらしました。教会、つまり、キリストとすべてのキリスト者は神の神殿そのものなのです。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリントの信徒への手紙一3・16)。そしてまた、「わたしたちは生ける神の神殿なのです。」(コリントの信徒への手紙二6・16)。

最後に述べますが、決して軽んずべきでないことがあります。マタイ福音書によるとイエスの考え方は明白です。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)。

東京の岡田大司教が「カトリック新聞」に書かれた言葉を参考にして、次の御復活のメッセ―ジを皆様に贈りたいと思います。『一人一人の中に聖霊が住んでおられる。そこからキリストの復活の光が差してきます。日々小さな出来事の中に差し込んでいる復活の光を見つめて励ましをいただきながら、底知れないイエス・キリストの御復活の恵み豊かな源泉を飲みましょう。』

御復活おめでとうございます。