栄唱 その2 いつから神の栄光をたたえる習慣が始まったのでしょうか」に明らかになったように、この栄唱は、私たちも含めて、生きとし生けるものも、そうでないものも神が偉大な力をもってお創りになり、愛していらっしゃることを皆が認め、それをいつも感謝しながら賛美したいという願望から始まったのです。
この願望は、神の無限で慈悲深く壮大であることに感激して、有難いと思う心から自発的に沸き出たのです。おそらく詩人であり神秘家であった十字架の聖ヨハネが書いているように、私たちの心に「愛の生ける炎」を燃やしていなければならないでしょう。

しかし私たちの多くの人は、実際には自分の判断で、ほかのもっとさし迫っている心配事を、灰で覆うように、その炎にかぶせているのかも知れません。あるいは自分に災いが降りかかるときや、テレビの画面にまざまざと大災害が映し出されるとき、神は本当に善良な方であろうか、確かに存在するのであろうかなどと疑問を感じるときなど、その炎が消えてしまうように感じてしまう可能性もあります。1989年のノーベル文学賞受賞者のポルトガル人ジョゼ・サラマーゴが2009年10月に出版する『カイン』という小説の中で、「神はどうも信用できない」と言っている如く。

とは言うものの、喜びの光り輝く時期もありますし、自分の苦難の日々の中にあって、急に神の暖かい明るさを感じる一瞬もあります。私があるお宅や施設にご病人を訪問することがあります。そこで学んだことは、不可能と思われる事柄に直面していらっしゃったり、非常につらい状況にある方々でも、心の平安を保ちながら、最後までしっかりとこの信仰に支えられていらっしゃるということです。

この愛の生ける炎を一日中、又日々を通して、ずうっと保ち続けるためにはどうすればよいでしょうか。栄唱の中にヒントを得ることが出来ます。「今もいつも」と唱えることです。一日に何回か「栄光は父と…」を心から一番好きなかたちで唱えたらいかがでしょうか。
第二バチカン公会議のおかげで、個人と共同の祈りは、聖書をもとにするように薦められています。栄唱は根本的には聖書に基づいています。また、幾人かの方々が、もう一歩進んで、他の祈り方を試みることは考えられないでしょうか。
たとえば、栄唱をゆっくりと唱えて、まず一つ一つの言葉を味わって、次に、自分にとって、個人的なことであれ、他人のことであれ、全世界のことであれ、今の心配事を神と話し合って、そして最後に、言葉で無しに、おん父と、おん子イエス・キリストと聖霊の奥深い愛を眺める祈りもあります。

二ューヨークのあるカトリック大学の Spirituality コース(霊性・精神性講座)の責任者のシスターによりますと、もっともっと深い瞑想、神秘的な祈りが求められています。これらの祈りは、第二バチカン公会議までは非常に少ない人々に限られていました。今では祈る人には普通の希望になっています。ご存知の方がいらっしゃると思いますが、私は三十年ぐらい前にあるお坊さんから次のすばらしい詩を教えていただきました。

まなざしにとける
とければわたしなし
ないわたしに はなしなし
ただまなざしにとける
とけてあなたになる


心の視界範囲は無限です。神は欠かさず十分な恵みをくださいます。
栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。
アーメン。

主任司祭 ハイメ・カスタニエダ