ミサにあずかっている間にどんな経験をしますか、と聞かれたら、あなたはなんと答えますか?以下の文を読む前に、まずこの質問にご自分で答えてみてください。

いろいろな答えがあるのではないかと思います。信徒としての責務が果たせて満足だ、あるいは厳しい義務のあまり愉快でない重荷が下りてほっとしたと思うとか、正直なところ、はっきり言って退屈だとか、心の喜びと平安である等々。

私は以下に、ミサにあずかる時に多くの人がもつ、いくつかの深く意味のある経験を順不同で述べてみたいと思います。

1. 心配で憂鬱になったり、苦しんだり、身体的にあるいは精神的に痛みを覚えるなど、特に苦しい状況を経験する時、あるいは全く反対に、言葉に表せないくらい幸せである時、わたしは決して一人ではない、と言うこと。神がわたしと共におられ、イエスがわたしの心の中におられます。わたしは同じ信仰と希望を持ち、例外はあるにせよ、心からわたしのことを思ってくれる人々の中の一員なのです。

2. 祈り、そして聞き入れられたという経験。

3. 清められたという経験。それは当然のことながら、一方で自分が罪人であること、即ち不純であったり、自己中心的であったり、全く不完全であったりすることを認め、その一方で、もっと正直でありたい、誠実でありたい、自己の持つ、そして人に対してしばしば主張する理想に対して真実でありたいという健全な欲求、そして、神に対して、人に対して、自分に対してなした約束に忠実でありたいという健全な欲求を持つこと。

4. 自己の生活における理想と現実との間に調和を求める深い願いの経験。

5. いつも最良の夢と最悪の方向への傾きの間に分断されがちな己の心に、不思議なほど深く穏やかにやってくる落ち着きの経験。

6. 今救われたという経験、そして遠い未来にいつかイエスの愛と慈愛によって救われるという期待。

7. 静かな謙遜と忍耐という神の恩恵によって聖化された経験と、他者のために自分を犠牲にしようという生き方が価値ある生き方であるという気づき。

8. 共同体または共同体の誰かによって本当に愛されたという癒しの経験。

9. 愛と力と偉大さのすべてに値する神を讃え、感謝することだけでこの上なく幸せであること。

10. 同じように、神を讃え、生きていることに祝杯をあげたいと望み、自分のためにだけでなく、他者、特に自分よりも困っている人たちのために、自己の痛みや悲しみを捧げることなどの偉大なことを行いたいという気持ちを持つこと。

11. 神に優しく愛されているという素晴らしいゆるぎない経験。


私はこの巻頭言を「体育の日」即ち、1964年に開かれたオリンピックを記念する日に書きました。その年の3月18日に私は司祭に叙階され、次の日に初ミサを挙げました。叙階式と初ミサには父と母が参列してくれました。この出来事は私のこれまでの人生でもっとも素晴らしい経験であり、今もそうあり続けています。この経験がなかったら、私はこの記事を書くことはできなかったでしょう。


主任司祭ハイメ・カスタニエダ

------------------------
ハイメ・カスタニエダ司祭のプロフィール
フェルナンデス・カスタニエダ・アルバレス・オソリオ・ハイメ
1931年 スペイン・マドリッド生まれ
1948年 イエズス会に入会し、1958年来日
1964年 叙階
1966年より米国のSaint Louis 大学に留学
1970年から上智大学で教鞭をとる
退官後、2003年カトリック鍛冶ヶ谷教会に赴任