私たちは皆「列聖」の意味を知っています。「列聖」とは、ある死者を聖人の列に加えることであり、その前段階が列福、即ち、並外れた徳を持つキリスト者を公に尊敬することを厳かに是認することです。私達は神だけを礼拝するのであって、聖人や福者は尊敬する、ということをキリスト者でない人々に、場合によって、説明するのは良いことであるかもしれません。なお、殉教者の場合には「列聖」に「奇跡」は必要とされません。
「初期のキリスト者は聖母マリアと殉教者を敬いました。最初の殉教者ではない敬われた人は大修道院長聖アントニオ(251―356年頃)とトゥールの聖マルタン(397年没)でした。東方の聖像破壊者に対する第2ニケア公会議(787年)、およびプロテスタントの聖像破壊者に対するトレント公会議(1545―63年)では、聖人を尊敬することの重要性を再確認しました。」(G・コリンズ、E・ファルジア「神学小辞典」)

教皇ヨハネ・パウロ二世は本年5月1日の日曜日に列福されました。とても喜ばしいことです。しかし、他の特に優れた人達の場合でも、ふつうは何世紀にもわたって、次第に列福の気運が衰えるものですが、ヨハネ・パウロ二世の場合にどうしてこんなに早く列福されたのでしょうか、当惑した人がいました。主として、ナショナルカトリックレポーター誌の2011年4月25日号に掲載された、ジョン・L・アレンJr.の「列福Q&A」に従って、以下にこの質問に対する答えを記してみたいと思います。

「ヨハネ・パウロの列福は2005年4月2日に亡くなってから6年と29日後に行われました。最も早い列福です。近年ではマザーテレサより15日早かったのです。いずれの場合も、これが可能だったのは、選考作業を開始するために、教皇が候補者の死後5年の待ち時間を置く、という通常のルールを廃したことによります。」
しかし、今回の場合は、「奇跡」として認められうるためにバチカンが決めた厳しいルールに従って一つの奇跡があります。イエズス会のジェームズ・マーチン神父が考えるように、その奇跡によって、神がこの早い列福の方法を認められたと主張することができるのです。いずれにせよ、カトリック信徒であるかないかにかかわらず、多くの人々がヨハネ・パウロ二世は生存中に既に聖人であると確信していました。さらに、ヨハネ・パウロ二世の列福は近年では最も早いものかもしれませんが、1226年10月に死去したアッシジの聖フランシスコを18ヶ月後に列聖した教皇グレゴリオ九世は、1231年6月に死去したパドゥアの聖アントニオを半年以内に列聖しています。
そうはいうものの、ヨハネ・パウロ二世の場合は実に早かった、というのは否定できない事実です。なぜでしょうか?ジョン・L・アレンJr.はヨハネ・パウロの場合に特に早かったのには五つの要因があると言っています。

第一に、ヨハネ・パウロ二世自身が列聖のプロセスを1983年に総点検して、より早く、より簡便に、より低予算でできるように改正しており、これは現代の疲弊した世界において、聖性の現代的役割を高めようという考えでした。ヨハネ・パウロとマザーテレサは待ち時間が廃されたという点で例のないものですが、1983年以降、死後30年以内に列福された20以上のケースのうちの二つであるに過ぎません。そのリストの中には、著名な人(パードレ・ピオやオプス・デイの創設者のホセマリア・エスクリバー)もいれば、比較的知られていない人(コンゴの殉教者、アヌアリタ・ネンガペタとフォコラーレの一般信徒、キアラ・バダノ)もいます。その意味で、ヨハネ・パウロの列福は自らの列聖の方針、即ち、聖性が現代世界においても生きていることを明らかにしようという方針の自然な結果であったと言うことができます。

第二に、聖人の決定は、ある人物が聖なる生涯を生き、それに従うことに価値があると多くの人が確信したときから始まる民主的な過程であると考えられます。過去においては候補者の名声はしばしば非常にゆっくりとしか広がりませんでした。しかし、今日、同じような時間のずれはいつもあるとは限りません。ヨハネ・パウロ二世は教皇として、今日のグローバル化した社会の二つの顕著な特徴を巧みに利用しました。即ち、コミュニケーションが到る所で可能になってきたことと、旅行が比較的容易になってきたことです。その結果、列福の速さは、21世紀になってすべてのことが迅速に動くようになったそのスピードの反映以上のものではありません。

第三に、ヨハネ・パウロの改革にもかかわらず、聖人の決定の複雑なプロセスはそのままになっています。早く進む物事はふつうなんらかのしくみ(例えば修道会など)をもっており、その背後にシステムをスムーズに運ばせるための資金や専門的な技術をもっています。ポーランド人の教皇ヨハネ・パウロに関して、ポーランドのカトリック教会は、ローマ教区と同様にしっかりしたものであり、従って組織の支援が足りないから列聖の進展が進まないという心配はありません。

第四に、今日の教会の意志決定者はほとんどがヨハネ・パウロ二世の指名した人達であり、彼らが自分達の生存中に自分たちの指導者が列聖されるのを見たいという、強い個人的な動機があります。その中には、教皇ベネディクト十六世自身が入っているばかりでなく、長年ヨハネ・パウロの秘書を勤めたポーランド・クラコフの枢機卿ジーヴィッシュも入っています。彼にとってはヨハネ・パウロの記憶を生き生きと保つことが聖なる召出しを体験していると言えるのでしょう。

第五に、広く行き渡った要望、という単純な事実があります。世界中でヨハネ・パウロ二世への敬慕が今でも明らかであり、多くの場合、人々は彼が公式に聖人として承認されるまで待ってはいません。どれだけ多くの人々が、ヨハネ・パウロが亡くなったその日にバチカンの聖ペトロ広場で、「Santo, subito」(すぐに聖人に!)と叫んでいたかを多くの人が覚えています。イタリアの雑誌エポカ(Epoca)は列聖と列福とを区別しないで表紙のヘッドラインに「聖人教皇」と記しました。ヨハネ・パウロは同じ記録的速さで列聖まで進むでしょうか?いくつかの因子があります。そのひとつは、もう一つの奇跡が必要とされるかどうかです。

奇跡について語ることは難しいことですが、ヨハネ・パウロ二世はある子供の終末期の白血病を治癒させたと広く認められています。ローマ教皇庁保健従事者評議会の名誉理事、枢機卿ハヴィエル・ロザノ・バラガンはメキシコのザカテカスの自らの管区に教皇が訪問された際に、奇跡を目撃しています。2005年4月21日にバラガンはこう書き記しています。「五歳くらいと見られる少年は骸骨のように見えました。私はそこにいて、母親を連れてきていました。教皇はザカテカスの空港で飛行機を降りました。彼は母親を見て、骨と皮の本当に軽い子供を抱き、キスをしてから母親に戻しました。子供にしてやれることはそれ以上ありませんでした。そして、・・・子供は教皇にキスを受けた後、癒されたのです。今は若者です。」しかし、列福においては死後に起こった奇跡だけが考慮されます。この規則のため、この伝えられている奇跡はヨハネ・パウロ二世の列福には考慮されませんでした。

マザーテレサの場合は示唆に富むと言えるかもしれません。マザーの列福は多くの人々に期待されました。しかし、2003年10月の列福後7年半が経過していますが、列聖を推進している人達は、今も厳格なバチカン事務局の基準を満たすために奇跡を探しています。

「最後に、ベネディクト十六世の聖人の認定にあたっての注目すべき事実は、列福のスピードは下げることはなかったのですが、列聖に関しては大変慎重な態度を取っておられます。ヨハネ・パウロ二世は26年の間に1338件の列聖を認可しましたが、これは1年で平均51件となります。ベネディクト十六世は789件で年平均131件です。しかし、列聖は同じ速さでなく、ヨハネ・パウロが482件で年平均18人であるのに対し、ベネディクトは計34件で年平均7件以下です。これを考えますと、ヨハネ・パウロが正式に聖人として宣言されるまでには大分時間がかかりそうです」。

ジョン・アレンが述べているように、結局、マーチン神父は正しいかもしれません。即ち、もし、もう一つの奇跡が通常の医学的、神学的審査を素早くパスするなら、ヨハネ・パウロ二世が早く列聖されるようにされているのは神なのです。

主任司祭 ハイメ・カスタニエダ
2011.6.29

-----------------------
ハイメ・カスタニエダ司祭のプロフィール
フェルナンデス・カスタニエダ・アルバレス・オソリオ・ハイメ
1931年 スペイン・マドリッド生まれ
1948年 イエズス会に入会し、1958年来日
1964年 叙階
1966年より米国のSaint Louis 大学に留学
1970年から上智大学で教鞭をとる
退官後、2003年カトリック鍛冶ヶ谷教会に赴任