聖書を知る力―復活節第3主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 ルカによる福音24章35−48節

橋渡し(35節)
 この節はルカ24章13−34節の「エマオで二人の弟子に現れたイエス(エマオの出来事)」と36節以降を結び合わせる橋渡しの節です。

弟子たちへの顕現(36−37節)
顕現(けんげん)┅┅神が人間の目に見える姿で現れること。
 復活したイエスの顕現に、弟子たちはイエスを亡霊だと思い、恐れおののきます(37節)。彼らはエマオの出来事の報告(35節)を受けても、それを信じられずにいたのです。
 この段落はルカ24章50−53節に対応しています。この段落では「『平和があるように』と述べた」イエスに対して、「恐れおののきます」が、50−53節では「祝福する」イエスに対して、弟子たちは「伏し拝みます」。恐れていた弟子たちが伏し拝む者たちへと変わりますが、この変化が引き起こされる過程が38−48節の四つの段落によって明らかにされます。

第一段落(38−40節)
 イエスは恐がっている(こわがっている)弟子たちに対して、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(38節)と繰り返すことによって、弟子たちの恐れや疑いが全く根拠のないものであることを示します。さらに「私の手や足を見なさい」と述べ、「まさしく私だ」と語りかけ(39節)、両手と両足を示します(40節)。これは、復活したイエスは十字架にかけられたイエスと同一だ、という主張です。

第二段落(41−43節)
 復活したイエスは、十字架にかけられたイエスと同一である、という強調にもかかわらず、弟子たちの「不信仰」が続きます(41節)。「だが」彼らはイエスの求めに応じて、一切れの魚を手渡します(42節)。「信じられなかったが、だが手渡した(原文)」という彼らの態度に、あまりのことに呆然(ぼうぜん)とする彼らの姿が表されています。
 イエスは差し出された魚を食べます(43節)。「彼らの前で食べられた」の原文は、「彼らと一緒に食べた」と同じです(ルカ13章26節)。「一緒に食べた」の意味であれば、弟子たちとの親しい交わりが再開されたことをも表しています。死を乗り越えて継続するイエスとの関わりが弟子たちの不信仰を癒します(いやします)。
 イエスは在世中、エルサレムへの旅行の初め、弟子たちを宣教に派遣するに当たって「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。┅┅出される物を食べ」なさい(ルカ10章7・8節)と指示しましたが、これを自ら実行します。

第三段落(44−45節)
 この段落の冒頭の「イエスは言われた」(44節)は、原文では「だがイエスは言われた」です。「だが」はここでは「しかし」の意味です。そうであれば、弟子たちは不信仰から完全に脱却していません。なにがしかの疑いを抱いている弟子たちですが、「だが」イエスは彼らに言われます。イエスは彼の受難と復活の必然性を思い起こさせ(44節)、聖書を悟らせるために心の目を開きます(=聖書を悟らせるために知る力を開きます)。

第四段落(46−48節)
 この段落では、冒頭の46節に「だが」が置かれずに、原文では「そして」が置かれています。亡霊を見ていると恐れた弟子たちに両手と両足を示し(40節)、喜んだがまだ信じられずにいた弟子たちの「前で」魚を食べ(43節)、それでも信じきれなかった弟子たちの心の目(知る力)を開いたことによって(45節)、疑いが完全に取り除かれます。
 イエスはキリストの受難と復活(46節)、悔い改めの宣教(47節)は聖書に予告されており、弟子たちはそのことの証人だ(48節)と言います。

今日の福音のまとめ
 イエスは両手と両足を示し(40節)、弟子たちの前で魚を食べてみせ(43節)、亡霊(37節)ではないことを分からせようとしますが、すっかり消え去るのは、ルカ24章52節です。そこには天に上げられるイエスを「伏し拝んだ」とあります。弟子たちがそこまで導かれるには、まだされなければならないことがあります。それを書くのが44−49節です。
 44−49節では「聖書による説明」がテーマとなっています。このテーマはルカにとって重要な意味があります。弟子たちが疑いを消し、イエスの復活を信じることができたのは、繰り返し聖書が説き聞かせられたからです。手足を示し、魚を食べるだけでは、復活は信じられません。聖書による説き明かしが不可欠です。出来事は言葉によって解明されなければ、ただの出来事に終わります、出来事が人間を変えるほどの力を持つ出来事となるには、聖書を知る力が不可欠なのです。
 ルカ24章の二つの顕現物語(エマオの出来事と今日の福音)は、まずどこで私たちは復活したイエスと出会うか、を教えます。ルカは今日の福音で単に弟子たちの体験という過去のことを物語るだけでなく、人生の旅路においてキリスト者の共同体が復活したイエスとの出会いを体験するのは、常に聖書の御言葉の意味を知ること(44−49節)とパンを裂く式(35節)においてであることを示しています。
 イエスはパンです。私たちはイエスの受難と復活と罪の赦しを得させる悔い改めを告げる証人です。パンを食べ、「聖書を知る力」が与えられたのは証人となるためです。

2021年4月18日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教