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命を置く―復活節第4主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音10章11−18節

 今日の福音は14−15節を合わせ目とする二つの段落(11−15節と14−18節)からできています。

良い羊飼い(11−15節)
 11−15節では、11節と合わせ目の14−15節が「私は良い羊飼いである」と「主のために命を捨てる」で対応し、その間の12−13節は、狼を見ると羊を残して逃げ出す「雇われ人」の無責任さを述べています。彼は結局自分自身の利益、つまり生活の手段として羊を飼う雇い人となっているわけです。だから、この段落のテーマは、雇われ人とは違って、羊のために命を捨てる良い羊飼いにあります。
 14−15節には「知る」が四度繰り返されています。父なる神とイエスがお互いを「知る」ように、イエスと羊もお互いを「知る」。この「知る」は一方通行の知的な働きではありません。人格的なふれあいに基づく「知る」です。そのように羊を知る良い羊飼いは、雇われた羊飼いとは違って、羊の命に無関心ではいられません。雇われた羊飼いには「ただの羊」(13節)ですが、良い羊飼いには「自分の羊」(14節)です。このような人格的交わりに動かされて、良い羊飼いは「羊のために」命を捨てます。
 ヨハネ15章13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあるように、「知る」という人格的交わりはおのずと愛に高まってゆきます。ここでの「知る」は熟してゆけば、愛となるような「知る」です。

父の御旨(みむね)で(14−18節)
 14−18節では、合わせ目の14−15節と17−18節が「父」と「私は捨てる」によって対応し、イエスが父との関係の中で「命を捨てる(直訳 命を置く)」ことを示しています。
 17−18節は、直訳すると次のような構成となり、中心に置かれたcをa・a´とb・b´が囲い込んでいます。
 a このことのゆえに 父は私を愛する
    b というのは 私は命を置く、再び私はそれを取るようにと。
       c 誰も私から取り去らない、むしろ私はそれを自分から置く。
    b´私はそれを置く力を持つ、そして私は再びそれを取る力を持つ。
 a´この掟を私は私の父から取った。
 このような構成から分かるようにイエスは強制的に命を奪われるのではなく、自ら進んで命を捨てます(c)。
 その理由が二つの方向から述べられています。第一に、父が私を愛しており、命を置く(捨てる)ことは父の「掟」、つまり御旨(みむね)だと知っているからです(a・a´)。第二に、命を置く(捨てる)のは、「再び取る(受ける)ことができる」=復活することができる、と知っているからです(b・b´)。イエスの死と復活は神の御旨です。イエスは「父」との交わりの中で、「再び取る(=復活する)」という確かな希望に包まれて、自ら進んで十字架上に命を置くのです。
 イエスは、父なる神との深い愛の交わりの中で命を置く(捨てる)ことが14−15節と17節で述べられましたが、その間の16節では命を置く(捨てる)目的が語られていきます。「この囲いに入っていない他(ほか)の羊」とは異邦人を指します。彼らは「私(イエス)の声を聞き分ける」し、「一つの群れになります」。イエスが「命を置き(捨て)」それを「再び取る(=復活する)」後には、異邦人も救いにあずかることになります。

今日の福音のまとめ
 ペトロは足の不自由な人に「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、この人を立ち上がらせ、彼を歩けるようにします(使徒言行録3章6−7節)。この奇跡を目にした民衆は非常に驚き(10節)、彼らのもとに押し寄せますが(11節)、ペトロは彼らに説教をします(12節以下)。これを耳にした祭司たちはいらだち、ペトロを逮捕します(4章1−3節)。その翌日、大祭司やユダヤ人指導者たちは彼を取り調べますが、今日の第一朗読はこの尋問へのペトロの回答です。
 ペトロは「この人(足の不自由な人)が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(10節)と演説します。
 ここでの「名」は呼び名のことではなく、「人の名に伴う聞こえ・名声・評判」を指しています。イエス・キリストは「名声」を博していますが、その根拠は彼自身の行いや言葉にではなく、「あなたたちが十字架につけた彼を、神が死者から復活させた」という出来事に基づいています。イエスの名は神の働きを現す「名」なのです。
 イエス・キリストの「名」によって洗礼を受けた者は、「神の子と呼ばれるほどに愛された者だ」と第二朗読は教えます。だから、イエス・キリストの「名」を信じる私たちは、この世の無理解や迫害にさらされても、くじけることなく、歩むことができるのです。
 今日の福音では、「命を置く(捨てる)」が繰り返されることから分かるように、イエスの死がテーマとなっています。ヨハネ共同体は、イエスへの信仰ゆえにユダヤ教の会堂から追放されました(9章22節)。しかし、「強盗」(10章8節)のようなファリサイ派ユダヤ教から迫害されていようとも、ヨハネ共同体のために十字架の上に命を置き、救いの業を成し遂げられた(19章30節)イエスは、今なお「良い羊飼い」として彼らを守っている。つまり、「良い羊飼い」の講話に現れているのは、このようなヨハネ共同体の自己理解なのです。
2021年4月25日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文中盤で「下線+太字」にしている「置く」と「取る」(計4ヵ所)は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+太字で代用させていただきました。ご容赦を。