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留まっていなさい―復活節第5主日B年


ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ヨハネによる福音15章1−8節

 ヨハネ福音書の13−17章は、受難を前にしたイエスが弟子たちだけに語った「告別説教」と呼ばれている箇所です。

 二つの段落(1−6節、7−17節)
 今日の福音も一応は「告別説教」になりますが、1−6節の「ぶどうの木の譬話(たとえばなし)」は告別説教に特徴的なテーマを含まず、7節以降になると、この譬話との関連が急に弱まります。そこで、1−6節の譬話は、もともとは独立したひとつの譬話でしたが、後(のち)に7−17節が加えられ、現在の文脈(告別説教)の中に組み込まれたと考えるのが良いかも知れません。したがって、今日の福音は1−6節と7−17節の二つの段落に分けられますが、教会の朗読としては、1−8節が復活節第5主日に朗読され、9−17節が復活節第6主日に朗読されます。

 ぶどうの木の譬話の構成(1−6節)
 1−6節の「ぶどうの木の譬話」は、1節と5節の「私はぶどうの木」と2節と6節の「枝」によって囲い込まれており、次のようになっています。
 【1−2節 父】
 私はぶどうの木私の父は農夫。
 父は→実を結ばない枝を取り除く。父は→実を結ぶものを手入れする。
 【3−4節 私(の言葉)】
 あなたがたは既に清くなっている、私の言葉によって、私につながっていなさい。私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
 【5−6節 あなたがた(人)】
 私はぶどうの木あなたがたは枝。
 人が→つながっていれば、豊かに実を結ぶ。人が→つながっていなければ、焼かれる。
 1−2節は「父」の働きを述べ、5−6節は「あなたがた(人)」の姿に視点が移りますが、その間の3−4節では「(私の言葉によって)私につながっていなさい」との呼びかけが行われており、ここに譬話の目的があります。「つながる(直訳 留まる)」は、「人が自分本来の在り方を見出したところを離れずに、そのまま留まる」の意味です。ぶどうの木に「留まっていなければ」、実を結ぶ(直訳 実を運ぶ)ことができず、むしろ取り除かれたり(2節)、焼かれたり(6節)されてしまうのだから、「留まっていなさい」と呼びかけています。

 弟子となる(7−8節)
 7節aの「あなたがたが私に留まっている(直訳)」が、次の行で「私の言葉があなたがたのうちに留まる(直訳)」と言い換えられています。イエスに留まれば、イエスの「言葉」も留まります。
 イエスは、3節で「私の言葉によって既に清くなっている」と語ります。ここで「清く」と訳された語は2節で「手入れをする」と訳された動詞と同じ語源の言葉です。実を運ぶ(結ぶ)ようにと父が「手入れをし」、イエスが「清く」します。しかも、イエスに留まる者が清くなるのは将来のことではなく、「既に清くなっている」のです。イエスに留まるとき、彼の言葉が根から吸い上げられた養分のように実に向かい、父の働きとあいまって、実を豊かにします。こうして私たちは「多くの実を運び(直訳)」、イエスの「弟子となる」ことによって、父の素晴らしさ(栄光)を現すこととなります(8節)。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は「私はぶどうの木」という自己啓示の句から始められます。「私は……です」という表現は、ギリシア語の「エゴー・エイミー(英語の「アイアム」に相当します)」という定形句です。関連定形句を並べると、「私は命のパンである」(6章35節他)、「私は世の光である」(8章12節)、「私は羊の門である」(10章7節)、「私は良い羊飼いである」(10章11節他)、「私は復活であり、命である」(11章25節)、「私は道であり、真理であり、命である」(14章6節)、「私はまことのぶどうの木」(15章1節)、以上の7種類があります。
 聖書学者は「私は……です」という定形句には2種類あることを指摘しています。一つは「同定定式」と呼ばれるもので、「私は、命のパン、光、道、命である」という表現で、これはイエスが未来的・終末的表象内容を現在の自分が担っているということを主張したもので、終末の恵みの現在化として自己を同定するものです。もう一つの種類は今日の福音に見られるもので「認定定式」と呼ばれるものです。それは「良い」とか「まことの」という用語を伴ったもので、イエスの主張の独自性を論争的に表現するものです。旧約聖書では、イスラエルがぶどうの木に譬えられますが、このぶどうの木は悪い実をならせてしまうぶどうの木です(イザヤ書5章1−7節、エレミヤ書2章21節、ホセア書10章1節他)。そこで、イスラエルに代わって、イエス自身が「まことの」ぶどうの木となるのです。
 したがって今日の福音の意味は、イエスこそが私たちがそこに留まり、つながらなければならない「まことの」ぶどうの木であって、イエス以外に真の「いのち」の源はない、というのです。イエスと神との間を行き交う豊かな「いのち」にあずかり、その人らしく生かされれば、おのずと行いは変えられ、実を運ぶ(結ぶ)者となります。だから、行いを求めるよりも、まず「いのち」を受けるために、「まことの」ぶどうの木に留まるのです。今日の福音(ギリシア語原文)で「留まる」という動詞がわずか1−8節の間に7回、「実を運ぶ(結ぶ)」という動詞が6回も使用されていることは、このことを明白にしています。
2021年5月2日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文中盤で「下線+太字」にしている「置く」と「取る」(計4ヵ所)は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+太字で代用させていただきました。ご容赦を。