復活する
主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹
1節 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2節 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3節 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。4節 ところが、目を上げて見ると、石が既にわきに転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5節 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6節 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7節 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。8節 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである(マルコ16章1−8節)。
墓へ向かう女性たちの心配は墓の前に置かれた大きな石でした。誰が取り除いてくれるかと心配していましたが、到着してみると、石は取り除かれていて、すぐに墓に中に入ることができます(3−4節)。ここで面白いのは、石が取り除かれていたのに、それを驚いていないことです。
彼女たちが驚くのは、墓に入って、白い衣を着た若者を見たときです(5節)。この若者が神の使いを表すのは明らかですが、マルコは大げさな描写を避けます。このような控えめな描写は、取り除かれた石に驚かなかったことと共に、マルコの興味をよく表しています。彼にとって大事なのは、目を奪うような出来事でも、尋常では考えられない神秘的なあり様(ありよう)でもなく、神との出会いです。このことは天使の「あの方は復活なさった」(6節)という言葉からもうかがえます。この動詞は受動態で書かれており、イエスが自分の力で復活することなく、神の力によって復活させられることです。マルコの描写の仕方から考え、空(から)であった墓に重点を置いていません。むしろ神との出会いそのものです。
女性たちは復活の使者として弟子たちのところに遣わされます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」(7節)。この言葉には弟子たちに対する愛が現れています。ペトロはイエスを三度も否認し(14章66−72節)、弟子たちはイエスを見捨てますが(14章50節)、イエスは弟子たちを見捨てません。
「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。┅┅そこでお目にかかれる」(7節)。ガリラヤはイエスが宣教を開始した場所であり、弟子たちや女性たちがイエスと出会った場所です。また、マルコの教会の宣教の拠点であり、弟子たちや女性たちの出身地です。そこは弟子たちや女性たちにとって日常生活の場所です。そして、7節のこの言葉は私たちのガリラヤ(日常生活)における「イエスとの新しい出会いの体験」に私たちを招いています。
復活体験を現代の言葉で言い換えると「イエスとの新しい出会いの体験」です。そうであれば、復活は、聖書に書かれている出来事ですが、霊的に大小ありますが、現代でも復活体験をすることができます。「イエスは先にガリラヤへ行かれる」。私たちは、いつガリラヤ(日常生活)で彼と出会うことができるのか、決してわかりません。ただ私たちは常に先にガリラヤへ行かれた「イエスとの新しい出会いの体験」のために心の準備をすることを知っています。
追伸
2021年復活祭後、カトリック鍛冶ヶ谷教会の主任司祭として着任した ヨハネ・ボスコ 林 大樹です。信徒の皆様、よろしくお願いします。