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あなたがたの喜びが満たされる―復活節第6主日
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
ヨハネによる福音15章9−17節
二つの段落
今日の福音はヨハネ15章9節から始まりますが、先週の福音で触れたように、ヨハネ15章1−17節は次の二つの段落に分けられます。つまり、第一の段落(1−6節)では「ぶどうの木の譬話(たとえばなし)」を述べ、第二の段落(7−17節)ではこの譬話を一層掘り下げ、その意味を説いています。
今日の福音の構成(7−17節)
7−17節を一つの段落として捉えると、今日の福音は次のような構成になります。
* * *
a 7−8節
私の言葉があなたがたの内にいつもあるなら、望むものを何でも願いなさい。
あなたがたは豊かに実を結び、私の弟子となるなら、私の父は栄光を受ける。
b 9節
父が私を愛したように、私もあなたがたを愛してきた。
c 10節
あなたがたが私の掟(おきて)を守るなら、私の愛に留まっている。
d 11節
これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。
c´12−14節
これが私の掟である、互いに愛し合いなさい。
私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。
b´15節
私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた。
a´16−17節
私があなたがたを選んだ、私があなたがたを任命した、あなたがたが実を結ぶように、
父に願うものが与えられるようにと。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。
* * *
7−17節は、7−8節(a)と16−17節(a´)とが囲い込みを作り、11節(d)を中心とするコンチェントリック(求心的)な構成を持っています。
9節(b)と15節(b´)とでは、「父」と「あなたがた」を結び合わせる「私」の役割が述べられています。御父がイエスを「愛した」ように、イエスは弟子たちを「愛した」のであり、御父から「聞いた」ことをイエスは弟子たちに「知らせた」ので、もはや彼らを僕(しもべ)とは呼ばずに、友と呼びます。
10節(c)と12−14節(c´)とは「掟」で対応しています。イエスが御父の掟を守ることによって、父の愛に留まったように、イエスの「掟」を守れば、その愛に留まっていたことがあらわになります。イエスの「掟」とは「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合う」ことですが、これを行えば、イエスの友であることがあらわになります。
コンチェントリックの中心は、11節(d)「私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」です。私たちが喜びに満たされること、それがイエスの願いです。
今日の福音のまとめ
今日の福音の中心は「あなたがたの喜びが満たされる」(d)ことにあります。ヨハネ福音書には、「喜び」、それも「満ちあふれる喜び」というモチーフ(意味……主題、題材)が繰り返し現れます。いずれもイエスとの交わりがもたらす実りです。花婿イエスの声を聞く喜び(3章29節)、イエスの働きがもたらす救いの実りにあずかる喜び(4章36節)、ぶどうの木であるイエスとつながる喜び(15章11節)、イエスと再会する喜び(16章21節)、イエスの名によって祈り、願いをかなえていただく喜び(16章24節)、イエスのメッセージがもたらす喜び(17章13節)、復活したイエスを見る喜び(20章20節)。
ヨハネ福音書では、「喜び」は別名「平和」です。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。……」(14章27節)。この平和は、喜びと同じく、イエスとの交わり(14章15節以下)から生じるものです。復活したイエスが弟子たちにもたらしたものも、喜びと平和でした(20章19−20節、16章33節も参照)。
満ちあふれる喜びは「私の掟を守る」とき与えられますが(cとc´)、それ以前にイエスが私たちを愛しています。しかも父が愛したその愛によって愛しています(bとb´)。御父がイエスを愛したその愛が原因となって、弟子たちに対するイエスの愛が構成されます。別言すれば、イエスの弟子たちに対する愛を成立させるのは、御父のイエスに対する愛であって、父からイエス、イエスから弟子へと伝えられる愛は本質的に同一です。
ここで、「愛」という自発的なものと「掟」という強制的なもの、つまり一見相反すると思われるものが結びつけられています。イエスは10章18節で「私は命を捨てる(=受難)こともでき、それを再び受ける(=復活)こともできる。これは、私が父から受けた掟(=御旨)である」と言います。イエスは受難と復活とを、御旨とみなし、愛によってこの掟を受け止めます。「私の愛に留まりなさい」(9節)というイエスの命令は、イエスの愛の中に入り、その交わりの中に留まって、イエスの弟子としての存在を形づくりなさい、という意味です。弟子もイエスと同様に愛がその存在の構成要素となるはずのものだからです。私たちは掟を守らねばならないが、それ以前に私たちはイエスの愛に包まれています。イエスの愛に留まるとき、私たちは豊かに実を結びます(aとa´)。イエスが働くからです。
2021年5月9日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
※ 注(Web担当者より)
本文序盤の7−17節の引用部分は、原文(Wordファイル)では四角い枠で囲われていますが、Web上で枠にするのは難しいので、「* * *」で代用させていただきました。ご容赦を。