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父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい―三位一体の主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マタイによる福音28章16−20節

 疑う弟子に近寄るイエス(16−17節)
 弟子たちは復活者イエスの前にひれ伏しますが、「疑い(ディスタゾー)」も生じています(17節)。「ディス」は二つを意味し、したがってディスタゾーは「二つの方向に歩む」を意味します。人の中には二つの思いがあり、一方はこちらに他方はあちらへと分裂した状態を表します。
 この単語は新約聖書ではもう一度マタイ14章31節で使われています。夜、イエスが湖を歩いて弟子たちの舟に近づいたとき、ペトロは舟を出てイエスのもとに行こうとしますが、強い風を怖れておぼれかけると、イエスは「なぜ疑ったのか」と叱ります。ペトロの心は二つに分かれています。イエスのもとにいたいと思う一方で、現実に恐怖を覚えています。このような状態が「疑う(ディスタゾー)」という言葉で表されています。
 「疑う(ディスタゾー)」が否定的意味合いを持つ言葉であるのは確かですが、すぐ後の33節「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを伏し拝んだ」を見ると、ディスタゾーが契機となって、真の信仰に至っています。真の信仰とは心が二つに割れずに神へと目が向き、一心に救いを願う心ですが、そこに達するためには試練の体験を積み、もはや神に頼る以外に道はないところまで追い込まれる必要があるのかも知れません。それまでは自分の力に頼る心が残っていて、真の信仰からは遠くなっています。そうだとすれば、ディスタゾーは真の信仰に至る一つの段階となります。
 今日の福音では「疑った」弟子たちにイエスは近寄りますが(18節)、それは、世を怖れる心を弟子たちから除き、イエスの言葉に心を向けさせるためです。近寄って語った言葉(19−20節)が弟子たちから疑いを除きます。
 ルカやヨハネは、復活して弟子たちに現れたイエスが弟子たちの疑いを除くために手足を示したと書きますが、マタイはイエスの姿ではなく「言葉」によって真の信仰を確立する道を打ち出します。イエスの与える言葉とそれへの現在的従順こそが「疑い」を克服するのであり、イエスはここでは「天と地の一切の権能を授かっている方(かた)」(18節)として立ちます。この権威あるイエスが今もなお「いつもあなたがたと共にいる」(20節)のです。つまり、イエスは近寄って弟子たちに語った宣教の言葉(19−20節)によって共にいるのであり、それによって、弟子たち(=教会)が「教える」(20節)ことが可能となり、かつ使命となるのです。

 私の弟子にしなさい(18−20節)
 18−20節の宣教の指示に使われた動詞を拾い上げると、「行って……弟子にしなさい……授け……教えて」となります。主要な動詞である「弟子にしなさい」以外は分詞形ですから、イエスの指示の要点は「弟子にする」ことにあります。
 「弟子にする」という動詞そのものは、福音書で他に二回(マタイ13章52節〔天の国のことを学んだ学者と訳しています〕、27章57節)しか使用されていませんが、それから派生した「弟子」は、数多く使用されています。マタイ福音書では、イエスの「教え」の大部分は弟子たちに向けられています。イエスの弟子とは、イエスに従い(マタイ4章20節・22節、8章19節)、イエスと同一の運命共同体を造るほどイエスに結びつき(マタイ10章24−25節)、イエスと一体になって行動する者です(マタイ8章23節、12章1節以下)。
 それで今日の福音では、教会が弟子を育成して行く業を継続することが命じられています。イエスの時は、この弟子育成の業への派遣によって、教会の時の中に延長されるのです。   
 イエスは「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(20節)と語ります。「教える」という活動は、イエスの復活以前には、イエスだけに保留されていて(マタイ4章23節、5章2節、7章29節、9章35節、13章54節)、弟子たちには、神の国を宣教し、悪魔祓いをし、病気を癒すことは命じられていても(マタイ10章1節・7節)、ただの一度も「教えなさい」と言われていません。それが今初めて「教えなさい」と命じられるのです。
 これは教会の中で信者たちが「共にいる」(20節)ことをいつも体験しているイエスが、使徒たちが体験していた生前のイエスと同一の方(かた)であることを表しています。そして今、信者たちは、使徒たちと同様に「天と地の一切の権能を授かっている」イエスによって、弟子養成の業を継続すべく派遣されます。こうして「イエスの教え」を「学んだ弟子」たちは、イエスの言葉を実生活の中で活性化することに奉仕するのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音では、イエスは、三位一体の神の名によって「洗礼を授ける」こと、弟子たちに命じたすべてのことを守るように「教える」ことによって、すべての民を「弟子にしなさい」と命じます。「父と子と聖霊の名によって」と同じ前置詞「エイス」を用いた使徒言行録8章16節、19章5節の「主イエスの名によって」は、私たちは洗礼によって主イエスのものとなり、イエスと一致し、イエスの父を私たちの父にいただき、イエスの霊を私たちの霊としてもつ、という意味です(ガラテヤ書4章4−6節)。つまり、洗礼によって聖霊が与えられ、イエスと一致し、神の子とされ、「アッバ、父よ」と叫ぶことができるのです。
 このような神の救いの構造を考えたとき、神の救いは父なる神がイエスを通して聖霊において成し遂げられるのであり、人間は聖霊においてイエスを通して父なる神の救いにあずかるという「三一的(三位一体の)構造」をもっているのです。
2021年5月30日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教