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安息日の癒し(いやし)

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


a  イエスはまた会堂にお入りになった。
b   そこに片手の萎えた人がいた。
c    安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していた。
d     (人々はイエスを訴えるために)。
e      イエスは手の萎えた人に、
f       「真ん中に立ちなさい」と言われた。
        そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、
        善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。
e´     彼らは黙っていた。
d´    そこで、イエスは怒って人々を見回し、
      彼らのかたくなな心を悲しみながら、
c´   その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。
b´  伸ばすと、手は元どおりになった。
a´ ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、
   どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた(マルコ3章1−6節)。

 福音書が編集された当時、ある一定の効果を得たい場合に使う「雛型(ひながた)」あるいは「鋳型(いがた)」が、いくつか存在していました。「論争」、すなわち専門家同士の議論は、ラビたちが互いに鍛え合うために使っていた類型でした。福音書では、「論争」は頻繁(ひんぱん)に次のような図式が使われています。
●イエスの一つのしぐさやことばが、しばしば聴衆のわざとらしい驚きを引き起こします。
 安息日の癒しの聖書箇所では、
 片手の萎えた人がいましたが、人々は黙っていました(eとe´)。イエスは怒って人々
を見回し、イエスを訴えようとする彼らのかたくなな心を悲しみます(dとd´)。人々は、イエスが安息日に病人を癒すかどうか、注目していました。イエスは病人に、「手を伸ばしなさい」と言います(cとc´)。イエスは片手の萎えた人の手を元どおりにしました(bとb´)。
●議論が始まります:「あなたは┅┅と信じないのか」、「あなたたちは、聖書の中で読まなかったのか」。
 安息日の癒しの聖書箇所では、
 イエスは「真ん中に立ちなさい」。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言います(f)。
●最後に、真の問題点が現れます。そこで必然的に選択を迫られることになり、たびたび証人たちの意見が分かれます。
 安息日の癒しの聖書箇所では、
 会堂は律法の場です。ユダヤ教の指導者は自分の家にいるようなものです。最初はイエスが入ります(a)。最後には彼らが出て行きます(a´)。
 
 イエスの言うことは、はっきりしています。イエスが問いかけるのは、この目の前の人を助けることこそ神の望みではないのか、ということです。人々のかたくなな心を「イエスは怒って」と書いています。こういうときにイエスは怒りました。正しいことを正しいと認めず、その中で弱い人が無視され、圧迫されていく、そういうときにイエスは怒り、かつ大きな悲しみを抱きます。
 しかし、「(会堂を)出て行き、どのようにイエスを殺そうかと相談し始めた」(a´)という表現は、本来の律法の議論の場である会堂ではなく、受難によってしか問題を解決できない展開を生み出します。人々はイエスを訴えるために(d)=「そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。『何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに』」(マルコ15章3−4節)。
 「真ん中に立ちなさい」(f)という表現は、イエスの復活の力を思い起こさせます(ヨハネ20章19節・26節)。「立つ」も「復活する」もギリシア語では同じ言葉です。イエスを「立たせる」(復活させる)ことによって、神はイエスこそ律法の主(マルコ2章28節)であることを現すのです。
 今年の4月1日夕刻、日本の国際協力NGO(非政府組織)と在日ミャンマー人、そして仏教・キリスト教の宗教者約150人が外務省前に集い、ミャンマー国軍による暴力を具体的に止める行動をとるよう横断幕などを掲げて政府に訴えた、というカトリック新聞の記事を読みました。今日でも、話し合いの場ではなく、苦しみや悲しみ、忍耐によってしか問題を解決できない出来事がたくさんあります。神が苦しみ、悲しむ人々を「立たせて」くださいますように。

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