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パンを食べ、杯を飲む―キリストの聖体B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音14章12−16節・22−26節

 第一朗読 シナイでの契約(出エジプト記24章3−8節)
 今日の第一朗読はシナイでの契約を述べています。この朗読には三つの要素が現れます。
 .癲璽擦麓腓慮斥佞繁,鯡韻貌匹瀛垢せると、彼らは「私たちは、主が語られた言葉をすべて行います」と答えます(3−4節aと7節)。◆.癲璽擦六海里佞發箸忘彙鼎鮹曚、若者を遣わして、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげさせます(4節bと5節)。 モーセは血の半分を祭壇に振りかけ、残りの半分を民に振りかけます(6節と8節)。
 △任蓮▲轡淵せ海膿世鮓たイスラエル(モーセと長老たち)が、その場所に祭壇を築き、いけにえをほふって、それを確認したことが述べられています。
 では、神との交わりを「血に関する祭儀」によって表現したことを反映しています。レビ記17章11節に「生き物の命は血の中にあるからである。私が血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖い(あがない)の儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをする」とあるように、血は汚れを清め、聖別する力があります。
 〔語句の意味〕罪を贖う(つみをあがなう)……「罪を贖う」とは失ったものを買い戻すことです。旧約ではいけにえの命(血)が、新約ではイエスの命(血)がお金であり、すべての人の罪を買い戻し、神と人とが結ばれます。「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章45節)。「神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた(おとしいれていた)証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ書2章13−14節)。
 祭壇は神の現存を示します。その祭壇と民とに血が振りかけられたのは、血が神と民との交わりを結ぶ象徴となったからです。血は命であり、命は神のものですが、神は御自分のものである(いけにえの)血を用いて、私たちの罪の贖いを実行します。
 ,任蓮⊆腓慮斥佞読み上げられ、それを聞いた民が実行を誓うという形によって、神との交わりが確認されます。このように様々な形で表現された神と民との交わりが、「契約」という用語にまとめ上げられます。

 第二朗読 新しい契約の仲介者である大祭司キリスト(ヘブライ書9章11−15節)
 イスラエルには、「大贖罪の日(だいしょくざいのひ)」がありました。旧約において祭司たちは礼拝のために聖所の幕屋に入りましたが、その奥には年に一度の大贖罪の日しか入れない至聖所がありました。その日、大祭司は自分と民の罪の償い(つぐない)として、雄牛をほふります。「第二の幕屋(至聖所)には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のためにささげる血を、必ず携えて行きます」(ヘブライ書9章7節)。今日の第二朗読はこの大贖罪の日のことを背景として描かれています。
 旧約では祭司は何人もいましたが、新約では祭司はキリストただ一人だけです(祭司と司祭は意味が違います)。祭司は神と民との仲介者です。しかも「ただ一度」(12節)とあるように、毎年大贖罪の日に繰り返す旧約の祭儀とは異なり、キリストによる贖いは二度と繰り返される必要はなく、また繰り返されることはありえません。なぜなら、キリストの贖いは「永遠の贖い」(12節)だからです。こうして十字架上に御自分の血を流した大祭司キリストは「新しい契約の仲介者」(15節)となりました。

 今日の福音 キリストと共に死から命へと過ぎ越す(マルコ14章12−16節・22−26節)
 過越の食事はイスラエルの民がエジプトから脱出する際、小羊の血を家の門に塗り、その肉を食べることによって死を免れたことを記念し、死から命へと過ぎ越させた神に感謝する食事でした。12−16節では三回も「準備する」という言葉が繰り返されています(12・15・16節)。このことから分かるように、この食事は弟子たちが準備を重ねて備えねばならないほどに重要な食事なのです。
 この食事のイニシアティブはどこまでもイエスにあります。12節の弟子たちの質問を直訳すると「あなたが過越の食事を食べるために、どこに出かけて我々が準備するようにあなたは望みますか」となります。また14節の「私の部屋はどこか」という表現は、あたかも王が語っているかのようです。イエスが自らこの晩餐を主催しています。
 「取り」「賛美(感謝)の祈りを唱えて」「与えて」「言われた」(22節)という一連の動作がパンと杯について繰り返されます。この振る舞いは過越の食事で家長がごく普通に取る行いですが、イエスの続く言葉に照らされるとき、この食事はまったく違った意味を持ち始めます。パンについては「取りなさい。これは私の体である」と告げます(22節)。ここでの「体」は、その人の全存在を表す言葉であり、「これは私自身である」と言うに等しい意味となります。だからパンが裂かれたのは(22節)、イエスの全存在が十字架上において裂かれることの「しるし」なのです。
 続いて杯を取り、「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」(24節)と告げます。血は命を意味します。「契約の血」とあるように、イエスは新しい契約のために命を差し出します。旧約では、「契約のしるし」として動物の血が祭壇(神)と民とに振りかけられました(第一朗読)。新約はもはや動物の血によらず、イエスが十字架上で血を流すことによって「多くの人(=すべての人)」を包み込む契約となります。
 聖書では、罪とは神から離れている状態であり、生きていても死んだ状態です。回心とは神のもとに帰ることであり、死から命ある状態に戻り、神との交わりに生きている状態です。このパンを食べ、この杯を飲む者は誰でも、キリストによる新しい契約に包み込まれ、私たちの罪が贖われ、清められ、キリストと共に死から命へと過ぎ越すのです。
2021年6月6日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教