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ピスティスの力―年間第13主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音5章21−43節

 しきりに願う会堂長(21−24節)
 「会堂長」というのは、会堂の礼拝や建物を監督・管理する人のことで、会堂の役員である長老の中から選ばれました。会堂(シナゴーグ)はユダヤ人の礼拝の場でしたが、特別な聖職者がいるわけでなく、一般の信徒の組織でした。それを指導していたのがファリサイ派です。福音書の中のイエスとファリサイ派の対立を見るならば、会堂長ヤイロにとってイエスに近づくことはあまり有利なことではなかったかも知れません。
 しかし、会堂長ヤイロは希望をまったく失っていたため、自らの体面を捨て、イエスの足もとにひれ伏し(22節)、死にそうになった娘を救うようにと「しきりに」願います(23節)。この娘はすでに12歳になっていましたが(42節)、彼にはあくまでも「幼い娘」(直訳 小さな娘)です(23節)。「小さな娘」は「娘」の指小形です(小ささを表す接辞を付けて、親愛の情を表す語形)。この娘が生きることを願う「しきりさ」の中に、最愛な者を失う怖れに脅えながら(おびえながら)生きる人間の姿が端的に表されています。
 「(小さな娘の上に)手を置いてやってください」(23節)というヤイロのイエスへの願いは、ユダヤ人たちが持っていた人間の体に対する理解では、手が神の恵みと力を示す媒体であったことを反映しています。聖書の中で、しばしば癒し(いやし)は、言葉によってのみ行われるのではなく、身体的な接触によって行われています。
 イエスは「しきりに」願うヤイロの願いに応えて一緒に出かけます(24節)。

 出血病を患っていた婦人の治癒(25−34節)
 この婦人の病気はおそらく慢性の子宮出血でしょう。ユダヤ教の律法によれば、この病気の婦人は祭儀的に汚れた者であり、彼女に触れる者も汚れます(レビ記15章25節以下)。したがって彼女はいかなる宗教行事にも参加できず、重い皮膚病を患っている者と同様に、ユダヤ人共同体から疎外されてしまいます。12年間もこの病を患うことは、ユダヤ人女性にとっては特に大きな苦痛であったに違いありません。
 ギリシア語原文では、25−27節は、27節bの「触れた」を主動詞とするひとつの文章であり、「……女がいて、……苦しめられ……使い果たし……何の役にも立たず……聞いて……紛れ込み……触れた」となります。「触れた」以外の動詞はすべて分詞形であって、「触れた」の主語である婦人の状況や動作を述べています。この一連の分詞形は「触れた」までに至る長い道のり(人間のあらゆる手段が無効に終わったこと)を明らかにすると同時に、癒しを求める執念を強調します。婦人は「イエスのことを聞いた」今度も、かすかな希望を抱いて群衆の中に「紛れ込みます」。
 注目すべき言葉は34節の「救った」(ソーゾー)です。ソーゾーは「完全さ・調和ある全体」を意味する語根を持ち、「完全なものとなる、調和を得る」の意味です。この言葉は28節にも使われていますが、新共同訳はそれを「癒していただける」と訳しています。29節にも「癒された」という動詞がありますが、こちらは「ソーゾー」ではなく、別の動詞(イアオマイ)であり、「健康の回復」を意味します。そうだとするなら、イエスが触れた者を見つけようと「見回した」(32節)のは、救いの深みを知らない婦人にそれを知らせるためです。婦人から見れば、健康の回復が救い(ソーゾー)です。だが、それはただの「癒し(イアオマイ)」にすぎません。真の救いはイエスとの対話(交わり)にあります。それを知らせようとして、イエスは触れた者を見つけようとします。マルコがここで言いたいことは、救いはイエスの身体への接触が自動的に与える魔術なのではなく、イエスとの対話的触れ合いこそが救いなのだ、ということです。

 ヤイロの娘の蘇生(35−43節)
 23節で会堂長のヤイロがイエスに求めたことは「両手を置く」ことでした。しかし、イエスは子どもの両親と三人の弟子だけを連れて子どもの部屋に入ると、その手を取って、「少女よ、起きなさい」(41節)と命じます。イエスの癒しは「手を置く」という魔術的な動作によってではなく、「少女よ、起きなさい」と語りかける愛によって引き起こされます。
 子どもを死から蘇生させたイエスは、それを誰にも知らせるなと命じます(43節)。奇跡が興味本位に扱われ、うわさの種とされるなら、奇跡が暗示する神の愛が影をひそめてしまいます。だから、人々を追い出し、奇跡を目の当たりに見た人にも沈黙を命じます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は、ヤイロの娘の蘇生の話の間に、出血を患っていた婦人の治癒の話が挿入される形となっています。この二つの話を結び合わせるのは「信仰」(ピスティス)というテーマです。
 マルコ福音書の中での信仰(ピスティス)は「信仰」というよりも「信頼」といったほうがいいと思います。あらゆる手を尽くしても病気がよくならない、絶望の状態にあった婦人にとって、ほとんど希望に似ています。あきらめないで、「この人なら何とかしてくれる」と思い、ひたすら信頼してイエスに向かっていく態度です。
 この信仰(ピスティス)というテーマが、36節のイエスの言葉、「恐れることはない。ただ信じなさい」につながっています。娘の死という絶望の出来事に直面したヤイロに向かってイエスが求めるのは、このような信頼です。絶望、あきらめ、怖れは人をとりこにします。怖れの中で人は行き場を見失います。しかし、それを突き破って神を信頼すること、それが信仰(ピスティス)の力なのです。
2021年6月27日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教