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宣教に遣わされた―年間第15主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音6章7−13節

 12人の派遣(7節)
 12人がイエスに派遣された人々の人数を表しているのか、それとも象徴的な意味で使われているのかが問題となります。というのは、Iコリント書15章5節は、復活したイエスに出会った人々を列挙し「ケファに現れ、その後12人に現れた」と述べていますが、イスカリオテのユダがイエスの死の前に裏切って離れて行ったことを知っている私たちには、この「12人」は奇妙です。ユダが欠けているはずですから、正確には11人であったはずです。ユダに代わる人物が選出されるのはイエスの昇天後です(使徒言行録1章12節以下)。だとすると、「12人」という表現は人数を表すのではなく、旧約のイスラエルの12部族に対する新約のイスラエルの12部族を指す「12人」という象徴的な表現になります。イエスが派遣した人々は12人より多かったかも知れません。それが「12人」と表現されたのはイエスの弟子たちこそ神が支配する終末を生きる「まことのイスラエル」であるからです。

 イエスの指示(8−11節)
 「杖一本のほか何も持たず」というように、宣教の旅に持って行ってはいけない物のリストが書かれています(8−9節)。杖や履物(はきもの)は歩いて旅をするためになくてはならないものです。袋は献金を入れるための袋と考えられます。パンもお金も用意してはなりません。下着二枚持ってはいけないともいわれます。これは、本来は重ね着しないようにという意味だったようです。つまり、普通の服の上に外套(がいとう)のようなものを着てはならない、ということです。外套は野宿するために必要なものですから、外套を持たないということは誰かの家に泊めてもらうという意味になります。派遣される者は、自分で自分の生活をきちんと整えて旅をするのではありません。弟子たちは、人の善意にすがって生きることになります。
 ユダヤ社会には、旅人は厚くもてなすべきだという考えがありましたが、イエスの弟子たちは必ずしも受け入れられるとは限りません。この派遣命令には厳しさがあります。今この派遣された者を拒むならば、神の招きを決定的に拒むことになる、という厳しさです。「足の裏の埃(ほこり)を落とす」(11節)というのは、その地との絶縁を意味する言葉です。派遣された者は、ここで神の救いをもたらす者ですが、彼らを拒否する者にとっては、裁きを告げる者にもなってしまうのです。そのように大きな責任が弟子たちに与えられます。
 このような厳しい命令は何を目的としているのか、様々に説明されています。
(1) 宣教の緊急性を強調しています。終末が差し迫っているから、一刻も早く福音を伝えねばならない。だから旅の準備に時間をかけてはならない。宣教に全精力を傾けるべきです。
(2) 何も持参せずに出かけることによって、神の配慮への信頼が表されています。神の国(=神の支配)を宣べ伝える者は、そのメッセージが信頼にたる知らせであることを、身をもって示さなければなりません。
(3) 宣教は、神殿に参拝するのと同じように聖なる行為であることを示しています。というのは、ユダヤ教の神殿に参拝するときの持ち物を規定したミシュナ(口伝律法の集成)と関連するからです。
 もちろんどれか一つに絞る必要はありません。宣教は余計なことにかまける余裕のない緊急の、しかも聖なる行為であり、持ち物を持たないことによって、身をもって神の支配(=神の国)と配慮を証しする行為なのです。

 弟子たちの実行(12−13節)
 「12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」で始まるこの段落は、イエスの指示を弟子たちが実行したことを述べています。マルコ1章14−15節でイエスが告げたように、ここでも弟子たちが宣べ伝えるメッセージは神の国の到来です。しかし、ここでは何も持たずに出かけ、快適さを求めずに、必要な人のために働く彼らの姿そのもののうちに、神の国は到来している、と考えられているのでしょう。

 今日の福音のまとめ
 第一朗読(アモス書7章12−15節)のアモスは、紀元前758年頃、北イスラエル王国で活動した預言者です。当時「ベテル」(13節)には、北イスラエル王国の国家聖所があり、祭儀によって国家の豊かさを支える精神的支柱の役割を果たしていました。そのベテルにおいて、アモスはこのままでは国が滅びると預言します。ベテルの祭司アマツヤは、このアモスの言動を恐れ、「ベテルでは二度と預言するな」と忠告します。彼の言葉の根拠は「王の聖所、王国の神殿」だからです(13節)。アマツヤにとって、第一に優先されるべきは、王の権威であり、王国の安定と繁栄だったのです。
 主(しゅ)がアモスに語った言葉、「行って、わが民イスラエルに預言せよ」(16節)は、アマツヤの言葉と真っ向から対立しています。アマツヤは王の権威を背景に「行け」(12節)と述べ、「二度と預言するな」(13節)と命じましたが、アモスは主から「行け」と言われ、「預言せよ」と命じられました。またアマツヤは、北イスラエル王国は王のものだと考えているのに対して、アモスは、その北イスラエルを「わが民」と呼ぶ主の声を聞いています。この主の言葉を受け取ったアモスはもはや何者をも恐れず、民に預言を語り始めます。
 今日の福音は、神がアモスを通して働かれたように、神の国の到来を告げると共に自分の生きかたをもそれにささげるという課題を与えます。しかし、結果は神に委ねなければなりません。なぜなら、宣教はイエスにおける神の言葉により遣わされ開始されたからです。
2021年7月11日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教