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人里離れた所へ行って休みなさい―年間第16主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音6章30−34節

 使徒たちの帰還(30−32節)
 イエスが派遣した使徒たちが宣教(6章7−13節)からようやくイエスのもとに帰って来て、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告します」(30節)。イエスの指示(6章7−11節)では、「教える」(=宣教する)ようにとは言っていませんでしたが、それらはイエスが彼らに命じた務めの一部でした。「(イエスは)12人を任命し、使徒と名付けられた。彼らをそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3章13−14節)。つまり、彼らは病気を癒し(=悪霊を追い出す)、宣教し、教えるようにとの使命を忠実に行ったのです。
 イエスは彼らの労をねぎらい、彼らに休息を勧めます(31節)。「休む(アナパウオー)」とは、文字通りに「体を休める」ことだけでなく、「安心させる・元気づける」という意味でも用いられます。大勢の人への対応に追われ、食事をする暇(ひま)もなかった弟子たち(31節)は体を休める必要がありました。しかし同時に、精神的にも力を取り戻す必要があったに違いありません。悩みや願いを抱えた大勢の人を受け入れるには、体力と同時に、精神的な活力が必要とされるからです。
 イエスは「さあ、あなたがただけで」休むようにと促します。派遣されて宣教する者は、神との交わりに生かされていなければなりません。宣教を支える力の源は、神との交わりにあるからです。イエスが弟子たちだけで「人里離れた所」(31・32節)へ行くように命じたのは、体の休息もさることながら、神によって元気づけられることを願ってのことでした。
 このように「人里離れた所」とは、イエスがそこで祈ったように(1章35節)、単なる休息の場に留まらず、神との交わりの中で「元気づけられる」場なのです。

 憐れむイエス(33−34節)
 イエスと弟子たちが人里離れた所へと舟で出て行くのを「見た」群衆は、それと「気づき」、そこへ「一斉に駆(か)けつけ」、イエスたちよりも「先に着きます」(33節)。これらの4つの動詞によって、イエスや弟子たちを追いかけ回す群衆の熱意を表現しています。舟で出て行ったイエスたちよりも群衆の方が先に到着するのも奇妙ですが、これも群衆の興奮を描写するための手法なのでしょう。
 この群衆の熱意に対するイエスの反応は3つの動詞にまとめられています。舟から岸に上がったイエスは多くの群衆を「見て」、飼い主のいない羊のような彼らを「深く憐れみ」、多くのことを「教え始めます」(34節)。イエスの「見て」、「深く憐れみ」、「教え始めた」という動作は、イエスを求めて駆けつけた群衆の熱気に鋭く反応するイエスの心の現れです。
 ここで「深く憐れむ」と訳された語、スプランクニゾマイは単なる同情にとどまらず、行動へと直結するような憐れみを表します。この憐れみは、人里離れた所で、神と深く交わることから生まれてくる憐れみです。イエスの深い憐れみの心は、導き手を持たずにさまようかのような群衆に向かってあふれ出てゆきます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は、使徒たちが宣教から帰って来たときに、イエスが彼らを人里離れた所に導いて休ませようとされたこと(30−32節)、しかし群衆がイエスを求めてついて来たので主(しゅ)は群衆を教えられた(33−34節)、という内容です。
 イエスは「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められます」(34節)。マタイでは、イエスは「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された(いやされた)」(14章14節)となっていて、病気を癒すキリストが強調されていますが、マルコでは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と記されています。マルコが好んで描く「教える(宣教する)イエス」ですが、マルコは教えるイエスの底には「深い憐れみ」が流れていることを指摘します。
 使徒たちは宣教の旅から帰ると、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず」イエスに報告します(30節)。マルコ福音書の中では、教えを説くのはイエスの役割になっていて、「イエスが教えられた」という句は15回もあり、教師としてイエスが強調されています。ただ、この一箇所だけが「使徒」が教えることになっています。使徒の宣教はイエスの生存中から、主の教職の延長とみなされています。
 イエスは「食事をする暇もない」使徒たちのことを考えて、「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言います(31節)。「人里離れた所」とは、イエスがそこで祈ったように(1章35節)、単なる休息の場に留まらず、神との交わりの中で「元気づけられる」場です。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ11章28−30節)。このイエスと共にいて、神との交わりの中にいることが、本当の安らぎです。
 今日の福音は、キリスト者の宣教活動は、「熱心に働く期間」と「人里離れた所でイエスと共にいる期間」(3章14節)とが交互にあるべきだ、と説明します。宣教の務めに没頭して忙しく働き、祈りや休息、神の前で沈黙することを必要としているのに、繰り返しおろそかにしてしまうという試みがあります。そうなると、いともたやすく自分のことを優先させるようになってしまいます。キリスト者の宣教の務めは祈りに根差しています。なぜなら、キリストを離れては、私たちは何もできないからです。
2021年7月18日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教