印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら

イエスはしるしを与えた―年間第17主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音6章1−15節

 「山」と「しるし」(1−4節、14−15節)
 今日の福音は、最初の1−4節と最後の14−15節が「山」と「しるし」という言葉で対応しており、出来事全体の枠を作りあげています。しかも、同じ出来事を伝える共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)では、出来事が起こった場所は「人里離れた所」であり、この出来事を「しるし」という言葉で表すことがありません。ヨハネ福音書は共観福音書とは違った視点からこの出来事を見ており、「山」と「しるし」はその特徴をほのめかす言葉なのです。
 「山」はガリラヤ湖の周辺にあるのでしょうか、ヨハネはその名は明記していません。山は定冠詞が付けられており、「あの山」という響きとなっています。イエスは「山」で「山上の説教」を語り(マタイ5−7章)、「12人の召命」(マルコ3章13節以下)も、「復活したイエスとの出会い」(マタイ28章16節以下)も、場所は「山」です。「山」は特別な出来事の起こる聖なる場所なのであり、旧約の民が神と契約を結んだ「シナイ山」と同じ意味を持った場所です。そうであれば、ここでの「山」は「キリスト者のシナイ」と呼ぶべき、神との出会いの場と考えることができます。
 ヨハネ福音書は奇跡を「しるし」という言葉で表します。大勢の群衆がイエスの後を追ったのは、イエスが病人たちになさった「しるし」を見たからです(2節)。ここでの「見る」はセオーレオーという動詞であり、「時間をかけて見る」ことを表しますが、同時に「理解がある深みまでは進んでいるけれども、十分ではない」という意味を含んでいます。
 聖書の述べる奇跡の意味は、目を奪うような不思議さにあるのではなく、それが指し示すものにあります。ヨハネ2章23節にも「イエスのなさったしるしを見た」群衆が現れます。
 「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかしイエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである」。
 イエスの目には彼らの興奮がどのような類(たぐい)のものか、それを明らかにするのが今日の福音の14−15節です。奇跡を見た彼らの興奮はイエスを「王にするために連れて行こうとする」興奮だったのです。

 主は私の羊飼い(5−13節)
 イエスは群衆を「草」(10節)に座らせますが、この「草」は腰を下ろすべき座布団なのではありません。というのは、ここで「座る」と訳された動詞は、「食事のために横たわる」ことを表す言葉だからです。つまり、ここでの「草」は食事の場所であり、イエスを「良い羊飼い」として描くヨハネ10章と関連づけるなら、羊の群れが飢えを満たす牧草地として考えることができます。そうであれば、この箇所の聖書的背景として、詩編23やエゼキエル書34章を思い起こさせます。
 「主は羊飼い。私は何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主の御名にふさわしく 私を正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも 私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭(むち)、あなたの杖(つえ) それが私を力づける」(詩編23・1−4)。「まことに、主なる神はこう言われる、見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。私は彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地へ導く。私はイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。私は良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場(まきば)となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃(ひよく)な牧草地で養われる。私が私の群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。私は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公平をもって彼らを養う」(エゼキエル書34章11−16節)。
 神が「草」の茂る牧場(まきば)に導き、彼らを豊かに養うと歌われていたように、イエスが真の羊飼いとして民を導き、パンを与えて彼らを養います。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音の出来事には、キリスト者である読者に聖体を思い出させようとしている独特の記述がいくつかあります。(1)ヨハネだけが「感謝をささげる」を意味するエウカリステオという動詞を用いています。その語から私たちは「聖体祭儀」(エウカリスチア)を引き出します。(2)ヨハネにおいてのみ、最後の晩餐のときのように、イエスが自らパンを分け与えています。(3)ヨハネにおいてのみ、弟子たちにパン屑が無駄にならないように、それらを集めるようにイエスが命じています。「パン屑」を意味するギリシア語Klasmaは、初期キリスト教文学では、聖体(ホスチア)を表す専門的な名称として出てきます(11−12節)。
 羊飼いは、羊の群れを「草がたくさん生えている」(10節)場所に導き、羊の群れを豊かに養います。同じように、イエスは命のパン(聖体)を与えて神との交わりに導き、私たちに救いをもたらします。
 イエスの奇跡は「しるし」です。「しるし」はそれが指し示すものを正確に見て取るときに意味あるものとなります。群衆は「しるし」を見てイエスに従いますが、そこに彼らが見たものは利用価値です。彼らは神の言葉よりも彼らの願望を優先させ、願望の充足のために「しるし」を求めますが、イエスの与える「命のパン」はそのようなパンではありません。
2021年7月25日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
正しいフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。