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わたしが命のパンである―年間第18主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音6章24−35節

 今日の福音は、状況を書く24節を除けば、群衆とイエスの間に交わされた対話だけからなります。この対話では、尻取りゲームのように相手の表現を受けて、次へと話が進められていますが、それはかみ合うことのない対話です。それを図に示せば、次のようになります。
(1)群衆「捜し求める」(24節)
  →イエス「捜している」(26節)
(2)イエス「働く」(27節)
    →群衆「行う」(28節)
(3)群衆「神の業(複数)」(28節)
  →イエス「神の業(単数)」(29節)
(4)イエス「信じる」(29節)
    →群衆「信じる」(30節)
(5)群衆「パン」(31節)
  →イエス「パン」(32節)
(6)イエス「与える者」(33節)
    →群衆「ください」(34節)
(7)群衆「パン」(34節)
  →イエス「パン」(35節)、
   イエス「来る者」(35節)

 この尻取りのどの段にもイエスと群衆の間にずれが見られます。
(1)「捜す(ゼーテオー)」
 確かに群衆は熱心にイエスを捜し求めています。しかし、イエスから見れば、彼らの「捜す」には欠けたところがあります。群衆がイエスを捜すのは、パンを食べて満腹したからであって、「しるしを見た」ためではありません。「パンを増やす奇跡」(先週の福音)は彼らにとっては欲求を満たす出来事で終わり、「しるし」となっていません。イエスは「しるし」を見て捜すことを求めます。
(2)「働く・行う(エルガゾマイ)」
 群衆はイエスを捜し求めてやって来ますが、それは再びパンを求めてのことであって、彼の言葉を求めるためではない、とイエスは見抜いています。そこでイエスは朽ちる食べ物ではなく、「永遠の命に至る食べ物(=イエス)のために働きなさい」と呼びかけます。この「働く」は「食べ物を獲得するために働く」の意味ですが、ここでの食べ物は「人の子(=イエス)が与える」食べ物ですから、「働く」という側面よりも、恵みとして「受ける」という側面が強く響く言葉となっています。
 しかし群衆は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねます。彼らの言う「行う」は、人間の自力と努力によって獲得することを意味します。
(3)「神の業(エルガ・トゥー・テウー)」
 群衆の目は「しるし」であるイエスに向かわず、食べ物を受け取るために必要な様々な「神の業(複数)」に注意が注がれます。これに対して「神が遣わした者(=イエス)を信じる」ことが「神の業(単数)」だと答えます。なぜならイエスこそまことのパンであり、今、群衆はその永遠の命そのものであるイエスを目の前にしているからです。
 群衆の言う「神の業(複数)」は、具体的には神の掟や指示を指し、彼らは永遠の命を得るためには、それらの業を行わねばならないと考えています。だが、イエスの「神の業(単数)」は神自身が行う業であり、人間はそれを受け入れる(=信じる)だけなのです。
(4)「信じる(ピステウオー)」
 イエスを信じることこそ永遠の命を手にするための最大の「業」です。しかし群衆はこのことに気づきません。群衆は「あなたを信じる」ことができるようにと、「しるしを行う」ことを求め、「天からのパン」を人々に与えたモーセを引き合いに出し、イエスを通して再びパンが与えられることを期待します。
(5)「パン(アルトス)」
 群衆はパンを与えたのは、モーセであり、しかも過去のことを考えています。だが、イエスはその誤りを正します。「モーセ」が「与えた(過去形)」のではなく、「父」が天から「与えている(現在形)」のです。イエスの考える「天からのパン」はマンナではなく、彼自身がパンなのです。
(6)与える者・ください(ディドーミ)
 イエスは「与えるもの」を「与える」と捉えて、自分自身がそれであるとほのめかします。だが、群衆はそれを「与える」と捉えて、食べるパンを欲しがります。
(7)パン(アルトス)、来る者(エルコマイ)
 「しるし」を求める群衆は食べるパンを求めます。だが、「パン」はイエス自身です。
 イエスのもとに来る者は飢えないはずですが、群衆は「パンを増やす奇跡」を行う者の前では来る者でも(24節)、命のパンであるイエスのもとでは来る者ではありません。

 今日の福音のまとめ
 五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた「しるしを見た」群衆は、さらにイエスを捜して対岸にまで押し寄せます(24節)。こうして、イエスとの対話が始まりますが、話が進めば進むほど両者の間の溝(みぞ)が深くなっていきます。その理由は、群衆が本当には「しるしを見る」ことができなかったことにあります(26節)。
 群衆の望みは物質的なレベルにあります。つまり、彼らは「しるし」の意味するところではなく、「しるし」の奇跡的な要素を見ています。イエスは彼らを物質的な見方を越えて高めようと試みますが、彼らの頑固なまでの理解力のなさに遭遇(そうぐう)します。
 今、群衆に求められているのは、自らの見方から解放されて「しるしを見る」ことです。「わたしが命のパンである」(35節)。イエス自身が「しるし」です。イエスこそ神から遣わされた方だと信じること、それこそ命のパンにあずかる最大の業なのです(29節)。
2021年8月1日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

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