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父からお許しがなければ…… ― 年間第21主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音6章60−69節

 イエスにつまずく弟子(60節)
 今日の福音は、イエスの弟子の中にも、イエスの話を「実にひどい」と考える者が多くいたことから始まります。「ひどい」とは理解し難い内容だ、というのではなく、「聞くにたえない不合理な事柄」だという意味です。マタイ25章24節では「種を蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる」人を「ひどい人(直訳)」と表現しています。
 弟子といっても、イエスのごく近くにいてイエスに従う人たちもいれば、イエスを信じてはいても完全にはコミットしてはいない人たちもいたようです。ここでの「弟子」は後者のグループかも知れません。
 いずれにしても、ヨハネはイエスの出来事を過去の歴史としてではなく、ヨハネ福音書が編集された1世紀末のヨハネ共同体(ヨハネ福音書の読者)の状況とダブらせて描いています。この共同体は信仰を脅かす諸問題にぶつかり内部対立を起こしており、やがて分裂へと向かったことは汽茱魯佑亮蟷2章19節から明らかです。イエスを離れ去るこの弟子たちは、1世紀末のヨハネ共同体の危機を反映していると言えます。

 イエスの言葉(61−65節)
 イエスは弟子たちに「つまずくのか」と問い、「人の子がもといた所に上るのを見るならば……」と語ります(61−62節)。この文章は条件文だけで、帰結文が省略されています。どのような帰結文をイエスは心に抱いていたのか、二つの可能性を考えることができます。
  屬弔泙困は大きくなるだろう」。
 ◆屬弔泙困は解消するだろう」。
 イエスが帰結文を述べなかったのは、どちらもありえるからです。人の子(=イエス)がもといた所に「上る」のを見ることによって、つまずきが解消することもあれば、つまずきが拡大することもあります。なぜなら、十字架に「上る」ことは父のもとに「上る」ことだ、と見ることができなければ、つまずきは一層ひどくなるからです。
 この二つの道の分岐点となるのは「霊」と「肉」です(63節)。「肉」は(神の)霊との対比で使われる肉であって、「神との関わりを欠き、人間にすぎない自分の思いに固執する人間」のことを指します。人間が「肉」の状態に留まるなら、人の子(イエス)がもといた所に上るのを見ても、「何の役にも立たない」ことになります。イエスの言葉につまずかずに、それを受け入れることができるとすれば、それは(神の)霊に身を開いているときです。
 神の許しがあり、それを受け入れる心がなければ、人はイエスのもとに行くことができません。それほどに「肉」は重いのです。ですから、イエスと共にいた弟子たちの中でさえも信じない者が現れてしまいます。

 弟子の離反(66節)
 61−65節のイエスの説得にもかかわらず、多くの弟子が背を向けて離れ去ります。「歩む」は「生きる」と同じ意味のことであり、「イエスと共に歩む」とは弟子としてイエスに従う生き方を表します。イエスが霊によって生かされる世界を説いているそのときに、多くの弟子が「肉」という在り方に引き返してしまいます。迫害があったのではありません。「肉」にとどまり、自分の知識に閉じこもったので、イエスの言葉を聞き取れなくなったのです。人の子(イエス)を信じる者は心の目で見ることができますが、信じない者はいっそう心の目が見えなくなります。

 12人の弟子との問答(67−69節)
 残った12人の弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問いかけます(67節)。この疑問文は否定の答え、つまり「いいえ、離れません」を期待する形を取っています。イエスは12人を試しているのではなく、信仰を固くするように招いています。
 ペトロは弟子を代表して「誰のところへ行きましょう」と述べ、「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っている」と告白します(68−69節)。こうして人間は、「肉」に留まりイエスが見えなくなる人たちと、「霊」に身を開いてイエスに従う人たちとに二分されて行きます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音では、イエスの言葉が多くの弟子たちの不信仰、つまずき、離反のもとになります。イエスは彼らを説得するために「人の子がもといた所に上ること」(十字架を通して天に上げられること)を述べます(62節)。なぜなら、イエスが天に上げられたとき、イエスは聖霊を与えるからです。彼らの物質的な要求は「肉」の次元のパンを求めてのことです。肉は霊に反するものです。しかし、イエスの言葉(「霊」の次元のパン)は、彼に代わって命(霊と命は、実際には二詞一意です)を与える聖霊を授けます(63節)。
 ヨハネ6章には、「信じる」ことに関して神秘的な事実が啓示されています。「父が私にお与えになる人は皆、私のところに来る(=信じる)」(37節)。「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない」(44節)。「父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る」(45節)。父からお許しがなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(65節)。
 総合すると、イエスは、御父からの力添えがなければ、誰もイエスを信じることができないと言います。人間の救いに関わる、御父と御子そして聖霊の「相互協力」の神秘です。
2021年8月22日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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