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人の中から出て来るものが、人を汚すのである ―
年間第22主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音7章1−8節・14−15節・21−23節

 ファリサイ派の問い(1−5節)
 ファリサイ派の人々と律法学者たちは「なぜ、あなたの弟子たちは昔の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」とイエスに問います。ここで問題になっているのは衛生的かという問題ではなく、宗教上の「汚れ(けがれ)」という問題です。
 ファリサイ派は、福音書ではイエスと対立しているので、悪者のように思われるかも知れませんが、彼らは実に真面目な人々でした。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味から来ています。彼らは律法を忠実に守ることによって、律法を知らず汚れた民(ヨハネ7章19節)から自分たちを分離したのです。しかし、彼らは決して民衆に背を向けたのではありません。律法によって民衆を指導しようとしていました。民衆の近くにいて、民衆から尊敬されていました。
 律法を忠実に守るといっても、律法(モーセ五書)は何百年も前に書かれたものですから、現実に適応させるためにはいろいろな問題があります。昔から多くの律法学者たちが、そのための解釈を続けてきました。これが「伝承」、今日の福音では「昔の人の言い伝え」(3節)といわれるものです。伝承もモーセ五書と同等に大切していたのがファリサイ派の伝統でした。いわば法律と判例のようなもので、裁判による法律の解釈は判例として、それ以降の法解釈に影響を与えていきます。そんな風に、文字に表されたモーセ五書のほかに伝統的に細かに規定されていった律法解釈も、併せて神の掟(8節)として厳しく守ろうとしました。
 しかし、イエスが見たのは、こういうファリサイ派の考えが、民衆を絶望的な状態に追いやっているということでした。多くの人々は律法やその解釈である伝承を知りませんでした。結局のところ、ファリサイ派のように律法を忠実に守るということは、一般の民衆には不可能なことでした。そして、ファリサイ派が熱心であるほど、他の人々は罪人だということになってしまっていたのです。

 昔の人の言い伝え(6−8節)
 ファリサイ派の批判(5節)に対して、イエスはイザヤ書29章13節(ギリシア語訳)を引用して答えます。イエスが直接聖書を使って答えるのは、マルコではこれが最初です。ファリサイ派の人が「昔の人の言い伝え」(5節)を基準にして批判するのに対して、イエスは「神の心」(6節)を基準にして考えていることを彼らに告知します。8節では「あなたたちは神の掟を捨てて、『人間の言い伝え』を固く守っている」と言います。一体何のための掟なのか。あなたたちは、人間の言い伝えに固執して、神の心を忘れてしまっている。だから、偽善者と言われています。

 汚れについて(14−15節・21−23節)
 14−15節では群衆に、21−23節では弟子たちに、汚れが本当にどこから生じるかを教えます。汚れは洗わぬ手から生じるのではなく、人の心から生じます。自分の内側の汚れに目をつぶり「汚れた手」で食事することを問題視する人々とは違って、イエスは内面の清さを求めます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音に続く24−30節ではティルス地方で行われた奇跡を述べ、さらに31−37節ではデカポリス側のガリラヤ湖畔での奇跡を述べます。ティルスもデカポリスも異邦人の地です。マルコが福音書を編集した頃、異邦人の処遇をめぐって初代教会内部に少なからぬ争いがありました。それを考えると、今日の福音の背景には異邦人問題があるかも知れません。マルコはイエスの言葉を思い起こしながら、異邦人であることが直ちに汚れとはならないと主張したいのです。
 「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい」(14節)。今、イエスが権威をもって、ユダヤ教の人間の言い伝えにとって代わる、新しいキリスト者の掟を与えます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」(15節)。
 これが今日の福音の結論です。外から入ってくるもので人を汚すものは何もないと言ったら、何を食べてもいいということになります。ユダヤ教では、いろいろな動物を汚れたものとして食用に供することを禁じていました(レビ記11章)。イエスはそのような制限を廃止し、人の心から外に出るものこそ人を汚すものであることを指摘し、内的清さを求めます。この食物の制限の撤廃は、キリスト教に回心したユダヤ人と異教から改宗したキリスト者が同一の食卓につく障害を取り除き(使徒言行録10章1節−11章18節、ガラテヤ書2章12節)、異邦人のキリスト者にも、主の食卓につくことを可能にしたのです(マルコ7章27−28節、8章1節以下)。
 ファリサイ派と律法学者は「汚れ」を問題にしますが、2・5節の「汚れた手」は、直訳すると「世俗の手」となります。この「世俗」と直訳された語(コイノス)は「共有の・共同の」を意味しますが、そこから「普段の・世俗の」という意味になり、神聖さを欠いた汚れた状態を表す言葉となりました。聖と汚れは、元来神と人間の関係ですが、ファリサイ派はそれを日常生活の全領域に広げ、俗から遠ざかることによって清さを保とうとします。
 コイノスはファリサイ派にとって「汚れた」という意味になりますが、キリスト者にはコイノスと同じ語源を持つ名詞コイノーニアー(交わり)へとつながる言葉となります。キリストの霊との交わりが共通の基盤となって、キリスト者同士の交わりを可能とするのです。
2021年8月29日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教