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エッファタ(開け)―年間第23主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音7章31−37節

 聖書学者は、マルコ6章30節から8章26節までの間に、二つの並行記事のあることを指摘しています。

パンを増やす奇跡
 6章30−44節 … 8章1−9節
ガリラヤ湖を渡る
 6章45−56節 … 8章10節
ファリサイ派との論争
 7章 1−23節 … 8章11−13節
パンについての討議
 7章24−30節 … 8章14−21節
イエスの奇跡物語
 7章31−37節 … 8章22−26節
  ペトロの信仰告白 8章27−30節

 7章31−37節の今日の福音の奇跡物語では、「人々」が病人を連れて来ますが(32節)、8章22節も同様です。ただ7章では「耳の聞こえない、口の利けない人」(37節)ですが、8章では「盲人」(22節)となっています。
 今日の福音はマルコ福音書だけが伝える奇跡です。8章22−26節もマルコだけが伝え、しかもこの二つの箇所には共通する表現、例えば「群衆の中から連れ出し」(7章33節)または「村の外に連れ出し」(8章23節)、身体に手を触れると同時に、「唾(つば)をつけ」(7章33節、8章23節)、「はっきりと話すことができるようにし」(7章35節)もしくは「はっきりと見えるように」(8章25節)されます。そして、このことについて秘密を守るように命じます(7章36節、8章26節)。
 今日の福音で耳が開かれる奇跡が語られ、8章22−26節で目が開かれる奇跡が語られたのは偶然ではありません。奇跡はイエスの本性(イエスは何者であるか)を悟らせる「しるし」ですが、「目があっても見ず、耳があっても聞こえない」(8章13節)ファリサイ派の人々のようであるなら、イエスを見誤ることになります。マルコはそれを語るために、耳を開く奇跡と目を開く奇跡を対(つい)の位置に置いて語ったのです。
 マルコはこの箇所で、新約聖書と旧約聖書に、各一回しか使われていない、まれな用語を使用します。イザヤ書35章6節(今日の第一朗読)で「口の利けなかった人」と訳された語は、今日の福音で「舌の回らない(モギラロス)」と訳された語と同じです。
 イザヤ書35章(今日の第一朗読)は、神の現れが荒れ野を豊かな地に変え、病人たちに健康をもたらすという比喩(ひゆ)を使いながら、その恵みを美しく歌います。
 「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳を開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ書35章4−6節)。
 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳を聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人(アラロス)を話せるようにしてくださる」(37節)。群衆のこの感嘆もイザヤ書35章4−6節とその内容が似ています。いずれにしても、マルコにすると、イエスが行われたこの奇跡は神の現れ、つまりイエスの本性(イエスは何者であるか)を示すものです。それと同時にマルコは、イエスから目を開けられ、耳も開かれ、そして「はっきり話すことができるようになり」(7章35節)、「はっきり見えるようになった人」(8章25節)だけが、ペトロが信仰告白(8章27−30節)を宣言したように、イエスを宣言し得る者になることを主張します。また、この二人が少しずつ癒されていく過程を詳しく述べて、神の恵みだけが少しずつ人間の病(やまい)を癒し、イエスをはっきりと見させ、はっきりと話させることができることをも主張しているのです。

 今日の福音のまとめ
 「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。この37節の人々の言葉は、イザヤ書35章5−6節を思い出させます。それは救いのときの到来を告げる預言でした。この言葉を伝えるマルコは、イザヤが告げた救いがここに実現している(神の国が到来している)ということを語ります。
 34節の「深く息をつき」と訳された言葉は、いろいろな意味にとれます。ローマ書8章22・23節では「うめく」と訳されています。この「うめき」は苦しみの中から救いを求めて叫ぶことを表しています。そうだとすれば、イエスはこの人の苦しみに共感し、その苦しみと一つになったところから「うめく」といってもよいのではないでしょうか。そして「エッファタ」と言います。「エッファタ」はアラマイ語(イエスが日常生活で用いたと思われる言語)であり、イエスの声が聞く人の耳に強い印象が残したのでそのまま伝えられたのでしょう。マルコにとって、イエスの言葉の持つ力を強調する意味があったと思われます。ここで、この人の耳は聞こえないはずでした。この聞こえない耳に向かって、イエスは力強く語りかけます。
 8章18節では「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と弟子たちが叱られています。イエスによって、目と耳が開かされ、弟子たちは悟っていかなくてはならないのです。そういう弟子のあるべき姿を表すものとして、マルコはこの舌の回らない人の癒しの奇跡物語を考えています。
 今日の福音では、耳が聞こえず話すこともできない一人の人間の苦しみに、イエスは心が揺さぶられます。そして、私たちはイエスの言葉を聞きます。「エッファタ」(34節)。それは聞こえない耳に向かって語りかけた言葉でした。たぶん他の人は誰も彼に語りかけないでしょう。しかし、イエスはあきらめません。この聞こえない耳に語りかけていくのです。そのイエスの希望と信頼がこの人を変えていきます。私たちが福音書を読むということは、このようなイエスに出会い、このようなイエスの声を聞き取っていくことなのです。
2021年9月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文序盤の「二つの並行記事」を列挙した部分は、原文(Wordファイル)では「6章」や「7章」の前で改行せず、表の形になっていますが、ここでは画面の幅が狭いスマートフォンでも読みやすいよう、「6章」や「7章」の前で改行しております。
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