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私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい―年間第24主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音8章27−35節

 第一段落 イエスは誰→キリスト(27−30節)
 イエスはここで初めて弟子たちに「私を何者だと言うのか」という重大な質問をします。ペトロは弟子を代表して(教会を代表して)「あなたはキリスト(メシア=油注がれた者)です」と答えます(29節)。
 その当時の状況において、キリスト(メシア=油注がれた者)とは何を意味していたのでしょうか。イスラエルの過去の歴史では、すべての王は神ご自身によって選ばれ、聖別された「油注がれた者」でした。しかし、イエスの時代にイスラエルに王はなく、過去六世紀の間ほとんど、他国の支配者によって統治されていました。その期間、ユダヤ人たちは、未来の「油注がれた者」についての神の約束、特にダビデの子孫がイスラエルの王座を永遠に治めるであろうというナタンの預言に固執していました(サムエル記下7章12−14節)。
 イエスの時代まで、この「油注がれた者」について、多様性のある説が流布(るふ)していました。ある者たちは、その人物がダビデの家系からの戦士のごとき王で、ローマ人を駆逐(くちく)し、イスラエルに独立を回復させるだろうという説を支持していました。他の者たちは、アロンの系統の祭司的メシアを思い描いていました。さらにまた他の人々は、平和と繁栄の新時代の到来を告げる超人的な人物を予想していました。
 ペトロはキリスト(メシア=油注がれた者)の意味をまだ不完全にしか理解していません。ペトロに対するイエスの応答は「誰にも話さないように」(30節)という厳格な禁止命令です。イエスの使命は、イスラエルの敵を屈服させるために、政治力あるいは軍事力を用いることとは無関係でした。彼の使命は、十字架を通して罪の力を倒すことなのです。

 第二段落 キリストは誰→死んで復活する者(31−33節)
 イエスは弟子の理解不足を教えるために「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たち(長老、祭司長、律法学者たちは最高法院と呼ばれるユダヤ人の宗教的・政治的最高権威機関を構成する三つのグループ)から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」ことをはっきりと語り始めます(31−32節)。
 しかし、イエスが歩むメシア像をまだ理解できないでいるペトロは彼をわきへ連れて行き、叱り始めます(直訳 32節)。キリスト(メシア)という人物は、イスラエルを解放し、ダビデの王国を再建すると広く期待されており、必ず勝利を収めることになっていました。当時のユダヤ人にとって、「キリスト(メシア)」が「苦しみ」あるいは「死」と結ばれているとは、到底考えられないことでした。
 だが、イエスもペトロを叱ります(33節)。ペトロがイエスを「叱り」、イエスもペトロを「叱った」のは、両者のメシア観がまったく異なっているからです。キリスト(メシア)を地上の勝利者と思い込んでいるペトロは、イエスの前に立ちはだかって、十字架への道を阻止しようとします。しかし、そのようなペトロは神のことではなく、人間のことを考える「サタン」です。むしろ、ペトロはイエスの後ろに引き下がり、十字架の道を彼に従うべきです。それでイエスは「サタン、引き下がれ」と命じます(33節)。

 第三段落 キリスト者は誰→イエスに従う者(34−35節)
 イエスは、すべての人たちを弟子になるように招いているので、群衆を弟子と共に呼び寄せ、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言います(34節)。この文章の最初と最後に「従う」が出てきます。イエスに従うこと、これがキリスト者であることを表す鍵となる表現です。ですから、この文章の主旨は、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負わなければならない。それが、私に従うということなのだ」ということです。
 「捨てる」(直訳「否定する」)ということは、完全に関係を否定することを意味する法律用語です。「否定する」とは、マルコ14章71−72節では「私はこの人を知らない」と言うことであるから、「自分を捨てる(=自己を否定する)」とは自分自身からの自由、及びそれが地上の財産であれ、天の報いに対する要求であれ、あらゆる安全保障からの自由にほかならず、この自由において、人はもはや自分の「自己」を認めない、ということです。この自由は、自己をまったく神に委ねきった人にのみ可能です。
 「自分の十字架を背負う」は、十字架にかけられて死にゆく人をイメージします。それは一世紀のマルコ共同体のキリスト者にとって、「イエスに従う」ということの具体的な姿であり、具体的な意味合いを持っていました。イエスはここで何もこうした道だけを歩むようにと弟子たちを招いているのではなく、常に自分に従うようにと招いているのです。
 イエスに従うことによって、価値の逆転が起きます。自分(自己)を主張することは損失になり、自分(自己)を捨てること(=自己をまったく神に委ねること)は命を獲得します(35節)。ここで語られているのは、イエスの後に従う生き方であり、イエスがその人の生き方の中心となっていることのみ、可能となるのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音が第一段落や第二段落で終わらず、第三段落をも含んでいるのは興味深いことです。イエスが誰であり、何をしたかを問うこと、それに続いてキリスト者であることとは何を求められているのか、それを問われています。イエスを問うことは自分の生き方を問うことでもあるのです。
2021年9月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教