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神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。―年間第27主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音10章2−12節

 ファリサイ派の律法観(2−4節)
 ファリサイ派の人々はイエスに「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問します(2節)。ファリサイ派の人々が離婚問答をイエスに仕掛けたのは「彼を試す」ためです。申命記24章1節には「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と明記しているのに、イエスは日頃から離婚の禁止を主張しており、イエスは律法に書かれた教えを無視する冒涜者だというイメージを民衆に植えつけ、イエスを攻撃できるからです。ファリサイ派の人々は律法こそ神の意志を表しており、それを守ることが人間の務めだと考えていました。
 離縁状を手渡すこと自体、夫の側から自分の妻に関しての法的権利を放棄することを意味し、つまり彼女は夫へのいかなる義務からも解放し、再婚の可能性が開かれました。「離縁状を与えよ」という規定は、女性が一人で生活していくことなど考えられなかった社会の中で、自分の夫から捨てられた女性に対して、何らかの法的な保護を与えていました。当時、女性の地位は低く、主人を失った女性は「寡婦(かふ)」と呼ばれ、弱者の代表とみなされ、律法では手厚い保護措置(ほごそち)がとられていました。離縁状もその一つです。だから、離縁状の目的は離婚を正当化することではなく、離婚の結果が女性に及ぼす影響を単に制限することにありました。女性の側には、自分の夫の離婚を認める法的権利はありませんでした。

 律法の読み方(5−9節)
 モーセは「離縁状による離婚」を認めている(4節)と勝ち誇るファリサイ派の人々に対して、イエスはこのような掟を認めたのは「あなたたちの心が頑固なので」だと答えます(5節)。この句を直訳すると、「あなたたちの心の頑固さに向けて」となります。これは「頑固さに譲歩(じょうほ)して」の意味にもなりますし、「頑固さに反対して」の意味にもなります。後者であれば、モーセが離縁状を書いて離縁を許したのは、人間の頑固さに妥協してというよりは、人間の頑固さをあからさまにするためだと言えます。もちろん、モーセは離縁状を書くことによって離縁を認めたことには変わりはありませんが、しぶしぶ認めたというにとどまらず、もっと強く、勝手気ままな離婚を告発する意味が込められ、できれば、離婚すべきではないと考えていることになります。
 イエスはモーセの考えをそのように説明した後で、結婚の意義を6節以下に述べます。イエスは人間に残された自由の範囲を問わずに、神の意志を問題にします。
 イエスは創世記から二つの聖句を引用して離婚の問題を「心の頑なさ」からではなく、「天地創造の初め」に戻して考えます。第一の引用は、男女の性別が神自身に由来していることを教える創世記1章27節です。「神は人を男と女とにお造りになった」(6節)。イエスの教える新しさは、この聖句に、同じ創世記2章24節、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(7−8節)を結合させて、そこから結婚の不解消性という重大な結論を引き出します。男女の性別も、またその一体性も神自身に由来するのです。

 弟子たちとの対談(10−12節)
 2−9節のファリサイ派の人々の論争において、イエスは、離婚に関して最も厳格なラビの立場よりもさらに厳しい立場をとっています。イエスはモーセ律法が条件付きで認めている夫の離婚権(申命記24章1節)を否定します。しかし弟子たちへの教えでは、モーセの律法にも反対するこの厳しい態度は緩和され、妻を出して他の女性と再婚することが禁じられるだけです(11節)。そして、妻にも離婚権を認めているギリシア・ローマ世界に住む異邦人を考慮して、妻に対しても同様の規定が適用されます(12節)。
 聖書学者は、11−12節のイエスの言葉は弟子たちの教えとしてすでにマルコ福音書以前に2−9節と結合していたと考えています。この結合によって、2−9節の反律法的発言は緩和され、実際の日常生活(教会生活)に適するように解釈されています。

 今日の福音のまとめ
 第一朗読では、男(イシュ)は動物の間には自分に合う「助ける者」を見つけることができなかったのですが(20節)、神が女(イシャー)を造って彼のもとに連れて来ると(22節)、探していた「助ける者」を見つけた喜びを口にします(23節)。創世記は「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)と続けますが、ここでの「こういうわけで」は助ける者を見つけた喜びを指しています。
 しかし、今日の福音では、イエスは創世記2章24節を創世記1章27節「神は人を男と女に造った」に結びつけているので、「こういうわけで(=それで)」は、神による男と女の創造を指すことになります。イエスから見れば、男の喜びは「助ける者」である女に出会った喜びだけでなく、神がそのように造った恵みへの喜びと感謝なのです。神の恵みに対する喜びと感謝に満たされるなら、身勝手な気持ちから離縁状を書くことはないでしょう。イエスが「神が結び合わせたくださったものを、人は離してならない」(マルコ10章9節)と述べるとき、この喜びと感謝を思い起こすように招いたのであって、新たな律法を課したのではないのです。イエスはファリサイ派の人々との議論をモーセの書いたこと(3−4節)から、神が造り意図したこと(6−8節)に、離婚(律法に基づく)から結婚(創造に基づく)に、移します。議論を神の恵みと感謝の領域に移して理解するように教えるのです。
2021年10月3日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教