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永遠の命を受け継ぐには、
何をすればよいでしょうか
―年間28主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音10章17−30節

 第一段落:富める者とイエスの対談(17−22節)
 マルコは今日の福音を「イエスが旅に出ようとされると」(17節)という意味深い句で始めます。つまり、イエスは十字架に向かう旅へと出ていることを思い起こさせます。その文脈の中で、一人の富める者がイエスの「私に従いなさい」という招きを聞き(17−22節)、弟子たちが富についてのイエスの教えを聞きます(23−30節)。
 一人の人が「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)と尋ねます。「永遠の命」は、「神の国」(15節、23節)の同義語であり、また「救われる」の同義語でもあります。だからこの人は、「神の国に入るには、何をすればよいでしょうか」、または「救われるためには、何をすればよいでしょうか」と問いかけたことになります。
 この人は「走り寄って、ひざまずき」、イエスを「善い先生」と仰ぎます。この人のイエスに教えを求めようとする熱い望みがよく表されています(17節)。イエスはそれに答えて「なぜ私を『善い』と言うのか」と語りますが、この人の呼びかけを追従や皮肉と受け取ったからではありません。この人の問いかけに真に答えられるのはただ神ひとりだけです。だから、「善い」を自分から切り離し、神に帰して、この人の姿勢を神に向けようとしたのです。神の教える永遠の命を受け継ぐ道は十戒にまとめられています。イエスはそれをこの人に思い起こさせます(18−19節)。
 この人はそれを「子どもの時から守ってきました」(20節)と答えます。イエスはこの人を「見つめ、慈しみます」(原文ではアガパオー「愛する」が使われています)(21節)。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の中で、イエスがある特定の人を愛した(アガパオー)と記されているのはマルコ福音書のこの箇所だけです。
 イエスは、神の教える永遠の命を受け継ぐ道をさらに具体的に教えます(21節)。その教えを直訳すると、行って、持っている物を売って貧しい者に与えなさい。あなたは宝を天に持つだろう。そして来て、私に従いなさい。
となります。「行って」と「来て」の対比に注意してください。財産を手にしたままイエスのもとに来ても、「私に従う」ことはできません。そこで「行って」財産を売り払い、身軽になって「来なさい」。そうすれば従うことができるようになります。
 しかしこの人は、イエスの愛(アガパオー)から出た「私に従いなさい」という招きに応じることができません。イエスの「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ります」。マルコ福音書はこの原因としてこの人が「たくさんの財産(クテーマ)を持っていた」ことをあげています。クテーマは、土地、田畑、農場などの不動産を指します。つまりこの人は大地主だったのです(22節)。

 第二段落:弟子たちとイエスの対話(23−27節)
 第二段落では、富の危険性が正面から取り上げられます。富に頼る心を捨てられなかった人は、気を落として立ち去りますが、これは富が離れることのむずかしい、強力な偶像であることをよく示しています。イエスは「神の国に入るのは、なんと難しいことか」(24節)と言います。このようにマルコ福音書では、金持ちばかりではなく、すべての人にとっても「神の国に入ることがむずかしい」ことが指摘されています。その原因は「何でもできる」神に頼らず、偶像にすがってしまうことにあります。そこで今日の福音は、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)と神の力を二度も言及するとともに、後半部では「何でも」を冒頭において神の全能を際立たせています。

 第三段落:弟子であることの報い(28−30節)
 第一段落
  永遠の命(17節)
  私に従いなさい(21節)
 第三段落
  あなたに従って参りました(28節)
  永遠の命(30節)
 第三段落のキーワードは第一段落と同じ「永遠の命」と「従う」です。だが、その順序は逆です。第一段落は「永遠の命」が先で、「従う」が後になりますが、第三段落では逆に「従う」が先で、「永遠の命」が後になります。逆転した理由はテーマの違いにあります。第一段落では「永遠の命を受け継ぐ」がテーマですが、第三段落では「従った者に与えられる報い」がテーマとされます。ペトロ(弟子を象徴する人物)は「何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)と言いますが、やはり報いが気になります。イエスはそんな弟子を叱りつけはせず、丁寧に約束を語ります(29−30節)。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音では「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と、イエスに尋ねる人が登場します(17節、ルカ18章18節、10章25節)。この「永遠の命」は神の支配が世の隅々にまで及ぶ終わりの日に神から与えられる命のことであり(マルコ10章30節、マタイ19章16節・29節、25章46節、ルカ18章30節)、終末の期待を強く持っていた初代教会では、終末の救いと深くかかわる言葉として使われ、今日の福音に見られるように、永遠の命を受け継ぐにはどう生きるべきかが真剣に問われました(マタイ19章16節参照)。
 永遠の命を受け継ぐには従うことです。自ら貧しく生き、十字架への道を歩むイエスに従うことです。そこには神の言葉以外の保証はありません。富める者のように、神の言葉の他に保証を求める心を「捨てる」ことができないならば、偶像は強力な力を持ち続けます。
 ペトロは「捨てる」ということを「従う」ことの前に出しますが(28節)、正しくは逆であって、「捨てる」ことは「従う」ことの結果なのです。
2021年10月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。また、その中で下線になっている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、単なる下線で代用させていただきました。ご容赦を。
●「第三段落:弟子であることの報い」の冒頭では、は、原文(Wordファイル)では「第一段落」や「第三段落」の前で改行しない形になっていますが、ここでは画面の幅が狭いスマートフォンでも読みやすいよう、改行を入れております。

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