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人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである―年間第29主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音10章35−45節

 栄光に至る道(35−40節)
 今日の福音に先立つマルコ10章32節で、弟子たちはエルサレムへ「先頭に立って進んで行かれるイエスを見て恐れます」。弟子たちが恐れを覚えたのは、エルサレムで待ち受ける苦難を理解し始めたからです。それを確認するかのように、イエスは三度目の受難予告を弟子たちに語ります。「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱(ぶじょく)し、唾(つば)をかけ、鞭(むち)打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33−34節)。今日の福音はこの受難予告に続く出来事を述べます。
 ゼベタイの子ヤコブとヨハネは、イエスを「先生」と呼び、「お願いすることをかなえていただきたいのですが」(いずれもマルコ固有)とイエスに要求します。イエスのほうも「何をしてほしいのか」と答え、イエス対弟子という線を強く打ち出します(35−36節)。
 二人はかつてイエスの栄光に満ちた変容の場面に立ち会ったので(マルコ9章2節以下)、「あなたの栄光の中で(直訳)、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と願います。「栄光の中で」はマタイ20章21節では「王座にお着きになるとき」ともっと明確にされています。
 この願いに対してイエスは、「栄光」よりも「栄光に至る道」つまり「苦しみ」について言及します(38節)。マルコでは、それが「杯と洗礼」という二つの比喩(ひゆ)によって表します(マタイでは洗礼の比喩はありません)。旧約聖書では「杯」はしばしば「苦しみ」を指しますし、また「洗礼」も「水の中に沈む」という意味でしばしば非常に大きな苦難の体験を表します。
 「苦しみ(杯と洗礼)に耐えることができるか」と問うイエスに、ヤコブとヨハネは「できます」(39節)と誓います。だから二人の願いは苦しみを無視したのんきなものではありません。二人はエルサレムで待ち受ける運命の厳しさに耐えねばならないと気づいています。だからこそ、彼らは栄光を求めたのです。苦しみは覚悟しますが、その後に栄光が待っていてほしい。そうでなければ、苦しみは無駄ではないか。栄光の中にいるイエスの隣に座ることが保証されなければ、苦しみを乗り切る勇気がなえます。彼らにとって苦しみそのものは無価値なものにすぎません。だから、彼らの視線は苦しみを飛び越し、栄光へと向かいます。
 イエスはヤコブとヨハネの視線を栄光の手前の苦しみへと引き戻そうとします。イエスは「私が飲む杯」、「私が受ける洗礼」というように、「私」と苦しみの結びつきを強調します。このように強調するのは、苦しみを避けるなら、イエスに従うことにならないからです。
 「栄光の座」は「定められた人々に許されています」(40節)。「定められた」は受動形ですが、これは「神が定める」を婉曲的に言い表す受動形です。〔語句の意味〕婉曲的に言う(えんきょくてきにいう)……遠まわしに言うこと。栄光の座につかせるのは神です。だから、苦しみが必ず栄光をもたらすとはかぎりません。それは神が決定することです。こうして、苦しみと栄光との必然的な連関が否定されますが、それは裏返せば、苦しみはそのままで価値を持つということです。

 弟子が取るべき態度(41−45節)
 この段落では異邦人の生き方(42節)と人の子の生き方(45節)とが対比されています。異邦人は、高い地位と権力を目指して生きます。一方、人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるためです。その極みが、45節で語られる十字架上の死です。この死は、多くの人の代わりの死であり、罪の奴隷状態から私たちを贖う(あがなう)買戻し金としての死です。
 この対照的な生き方の間に、弟子の取るべき態度を語る43節がはさまれています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」。異邦人、つまり神に出会っていない者は、権力を振るうことを栄光と考えています。しかし、イエスを知った者は、仕えるという道に従います。なぜなら、イエスは十字架に上ることによって皆に仕えたからです。十字架上の死こそイエスが皆に「仕える者」、「すべての人の僕になる」ことであって、栄光に至る道はこれ以外にはないことをイエスは指摘するのです。

 今日の福音のまとめ
 イエスは弟子たちに重大な勧告をします。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい」と(43−44節)。なぜなら、イエス自身が「仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの身代金として自分の命を献げるために来た」からです(45節)。
 今日の福音に先立つマルコ10章32節で、弟子たちは十字架への道を進んで行かれるイエスを見て恐れます。たとえ年をとっていく親や気難しい配偶者であっても、問題児であっても、教会の中で非常に困窮している者であっても、あるいは個人的な犠牲を払って隣人としての奉仕すべき状況にあるどんな人であっても、イエスは仕え、その命を献げるために来たのです。誰でも恐れおののくことなしに、イエスに従えると考えている者は、マルコによれば、真に弟子であることを理解していないことになります。
 弟子はイエスと同じように他者に仕えることはできません。それでも弟子たちはイエスに従い続けました。だから、弟子たちは祈りました。私たちも祈らなければなりません。「私の願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14章36節)。
2021年10月17日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教