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目が見えるようになりたいのです
― 年間第30主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音10章46−52節

 奇跡物語なのか?
 マタイの並行記事(20章29−34節)では、「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると」(34節)と、癒し(いやし)の実行に伴う身振りが書かれており、典型的な治癒(ちゆ)物語になっています。しかし、マルコでは癒しを引き起こす際の身振りすら記されていません。だから、今日の福音は単なる奇跡物語と見ることはできません。
 マルコの意図を探る手がかりは、バルティマイの動きを見ることです。彼はまず「その道の傍ら(直訳)に座っています」(46節)。人々の制止を振り切って叫び続けると(47−48節)、イエスの言葉があり(49節)、踊り上がって「イエスの前に来ます(直訳)」(50節)。そして、癒された後、「その道をイエスに従います(直訳)」(52節)。興味を引くのは傍線をつけた「その道」です。冠詞のつけられた「道」であるから、特別な道を指しています。
 今日の福音の直後に「一行がエルサレムに近づいて」(11章1節)とありますから、「その道」はエルサレムへの道です。しかも今日の福音の前には「一行がエルサレムへ上って行く途中」(10章32節)でイエスが行った三度目の受難予告(10章33−34節)を述べていますから、「その道」は受難への道であり、十字架への道です。
 道の傍らに目が見えずに座っていたバルティマイが、見えるようになり十字架への道をイエスに従う者となります。つまり、今日の福音は癒しを述べる奇跡物語に終わるのではなく、むしろ召命の物語なのです。

 叫びに応える呼び声
 マルコはまず出来事が、イエスが「弟子たち」や「大勢の群衆」と一緒に、「エリコを出て行こうとされたとき」のことだったと明記します。続いて、癒された人の名前を記した後、彼が「盲人の物乞い」であったと書き、本人の悲惨な状態を際立たせます(46節)。並行記事のマタイでは「盲人」(20章30節)だけ、ルカでは「盲人が物乞いをしていた」(18章35節)だけです。
 この人は、それがナザレのイエスだと聞くと、イエスに向かって叫び出し(47節)、それによって「道端」(46節)から「イエスのところに」(50節)来ます。「多くの人々」(マルコだけ)が彼を叱りつけ黙らせようとしましたが、彼はますます「ダビデの子よ」と信仰の叫びをあげます(48節)。一回目の「ダビデの子イエスよ」という叫びは、二回目には「ダビデの子よ」となっていてイエスのメシア的称号が強調されています。
 この信仰の叫びに対するイエス側からの反応を一番よく描くのもマルコです。イエスは立ち止まって、自ら「あの男を呼んで来なさい」と言います(49節)。「呼んで来なさい」は「声をかける」が原意で、この動詞は49節だけで三回も使用されています。人々は盲人に声をかけ、「安心しなさい、立ちなさい。お呼びだ」と言います。
 盲人は、施し物をしまいこむためになくてはならなかった「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来ます」(50節)。上着はこの人の古い生き方の象徴であり、それを「脱ぎ捨てた」のは新しい生き方への転換を表します。
 イエスは「何をしてほしいのか」(51節)とバルティマイに尋ねます。同じ問いかけが、先週の福音では、栄光を求めたヤコブとヨハネに向けられています(マルコ10章36節)。栄光を求める彼らの願いは、「私の決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(10章40節)と退けられましたが、「先生、目が見えるようになりたいのです」(51節)と答えた盲人(マルコだけ)の願いは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)と受け入れられます。マルコは奇跡を「信仰」に帰しています。つまりマルコでは、イエスに叫び続けた信仰によって、目が見えるようになったというテーマになっているのです。
 目が見えるようになったバルティマイは、「その道(直訳)」をイエスに従うことになります。ここでの「道(ホドス)」はただイエスの歩む道を指すだけでなく、パウロが「キリスト・イエスに結ばれたわたしの道」と述べるときのように、人の「生き方」やキリスト教の「教え」をも表しています。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は、受難物語(マルコ11章1節以下)に入る直前に、「信仰とは?」及び「イエスに従うとは?」、それらがどういうことなのかということを、もう一度この出来事において例証しています。
 盲人の信仰はあきらめ退くことなく叫び続けたこと、あらゆる抵抗にもめげずに叫び続けることで示されています。「叫び続ける」盲人に対して、「呼ぶ」イエスがいます。神は一方的に人間を呼びつけはしません。盲人のように助けを必要とし叫び続ける人々に対して、神は呼びます。詩編107・6に「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」とありますが、このような「叫び」は神への信頼を表す叫びです。「叫び」が信頼となるとき、神は呼びかけ、イエスに従う「道」の意味を示します。
 「盲人はすぐ見えるようになり」という句は、「なお道を進まれるイエスに従った」と並行関係があります(52節)。今日の福音は、イエスのもとに来て見えるようになるのと、そして、見えるようになってイエスに従うようにと招きます。マルコは「イエスに従う」には、イエスに叫び続け、目を見えるようにしていただく必要のあることをこの出来事を通して私たちに教えています。見えるようになった者だけが、受難に至るイエスの道を理解することができるのです。「何をしてほしいのか」。「目が見えるようになりたいのです」(51節)。
2021年10月24日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教