印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


あなたの神である主を愛しなさい。
隣人を自分のように愛しなさい。
この二つにまさる掟(おきて)は
ほかにない。
― 年間第31主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音12章28−34節

 イエスのエルサレム入城と受難の間には、敵と交わした四つの論争(マルコ12章13−37節)、終末についての預言(マルコ13章)、最後の晩餐についての記述(マルコ14章12節以下)などがあり、今日の福音は、敵と交わした四つの論争の三番目「最も重要な掟」についての論争です。

 質問者の問い(28節)
 28節aは前の二つの論争とのつながりをつくるためのマルコの編集句です。律法学者は、イエスがファリサイ派やヘロデ派の人々(13節)、あるいはサドカイ派の人々(18節)との議論を巧みに答えたのを見て、重要な律法問題について尋ねます。しかしマタイ22章35節、ルカ10章25節の並行箇所では、質問者である律法学者はイエスを「試そうとして」尋ねたとありますが、マルコにはそれがありません。
 ユダヤ教には613もの掟がありました。これだけ多くあると「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節b)という問いが生じて当然です。こうして掟をランクづけようとする努力がなされましたが、すべての掟を守るべき義務はなくなりませんでした。

 イエスの答え(29−31節)
 神への愛が「第一」とされ、隣人愛が「第二」とされていますが、この区別は掟の優越を示すのではなく、単純に順序を示し、「(同じように重要な掟の)一つ目は……二つ目は……」の意味です。イエスにとって大事なのは「この二つ(神への愛と隣人愛)よりも大きい、他の掟はない」ということです。
 このように神への愛と隣人愛を一つに合わせますが、この一体化はイエスの意図に合います。なぜなら、28節の質問者は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問いますが、イエスはそれに答えて、神への愛と隣人愛という二つの掟を挙げているからです。イエスがそうしたのは、二つの愛は関係のない別々の愛ですが価値において同等だからではなく、二つの愛は一つと言えるほど深く関わるからです。汽茱魯佑亮蟷4章20節が、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」と述べるように、二つの愛を一つのものと見るのが聖書の見方です。

 質問者の賛意(32−33節)
 質問者はイエスの考えに賛意を表します。しかし、二つの点でイエスの考えを補強しています。まず32節で「神は唯一である。ほかに神はない」と加え、神の唯一性を強調します。唯一の神の支配は全宇宙を覆っているから、その支配の及ばぬ所はどこにもない。だから、神を唯一の神と信じることは、神が多数か、それとも一つか、と数を問題にするというよりも、どこにいても、どんなときにも、救い・解放があるという宣言です。神への愛と隣人愛の根底にはこの宣言があります。次に、33節で神への愛と隣人愛が「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と言い、愛の欠いた祭儀のむなしさを主張しています。

 論争に終止符(34節)
 質問者が加えた二つの事にイエスは同意し、「あなたは神の国から遠くない」と述べます。「遠くない」と言われたのは、まだすべきことが一つ残っているからです。それはイエスの福音を信じることです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は、愛の三つの対象を示します。すなわち、神と隣人、そして自分自身です。
 第一の神への愛は、ユダヤ人が毎日唱えていた祈りの言葉(申命記6章4−5節)から、マルコは「聞け、イスラエルよ、私たちの神」という部分をも引用します。「私たちの」神とわざわざ断るのは、出エジプトなど、神との親密な歴史を思い起こさせ、神の愛に注意を促すためです。その愛に感謝する者に「あなた」の神を愛しなさい、と呼びかけます。「心」「精神」「思い」「力」など、全人格をあげて神を愛せるのは、神が先に人を愛したからです。
 イエスが第二の掟としたのは「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟です(レビ記19章18節)。「自分自身を愛する」とありますが、これはイエスが全面的に自己愛を認めたという意味ではありません。
 自己愛には二つの考え方があります。一つは、隣人を正しく愛するためにはまず自分自身を正しく愛さねばならないと考え、この掟を「あなたが自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という意味だとします。この場合、自己愛はある程度認められています。
 もう一つの考えは、この掟が命じるのは隣人愛だけであって、自己愛は命じられていないとします。「自分自身のように」と言われる「自分自身」は、自己愛に振りまわされる者の「自分自身」です。私たちは罪人であり、無意識のうちに自分を愛そうとするので、そのような仕方で隣人を愛せよ、というのが掟の意味だとされます。この場合には、自己愛そのものは命じられておらず、自己愛が自己に向ける「熱心さ」が比較の対象とされています。
 今日の福音では、イエスは神への愛(神に仕える)と隣人愛(人に奉仕する)というキリスト者の生活を教えます。だが、その生活は救いの条件なのではなく、先に私たち一人ひとりを愛し、救いを約束してくださった神への感謝から起こる(始まる)のです。
2021年10月31日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。