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この貧しいやもめは、賽銭箱(さいせんばこ)に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである
―年間第32主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音12章38−44節

 律法学者とやもめ(38−40節)
〔ギリシア語原文の直訳〕
【38節】 そして 彼の教えにおいて、彼は言っていた、
「あなたがたは気をつけなさい 律法学者たち、つまり欲している者たち
長い衣服で 歩くことを、 そして 挨拶を 市場で、
【39節】 そして 上席を 会堂で  そして 上座を 宴会で。
【40節】 食い尽くす者たち、やもめたちの家々を
そして 見せかけで 長く 祈る者たち
これらの人々は 受け取るだろう より以上の有罪判決を」。

 38節の三行目から39節の表現は、38節の「欲している者たち」が欲している事柄を表しています。「長い衣服」(ストレー)はここでは学者の身分をあらわす衣(ヘブライ語「タリート」)。特に長く、ゆるやかにたれていました。「挨拶」は丁重な挨拶の意味。「上席」は聖書が納められている聖櫃(せいひつ)の前方の長椅子。会衆に向かい合って座ります。「宴会で上座を欲すること」についてはルカ14章7−11節を参照してください。
 傍線をつけた三つの表現「欲している者たち」「食い尽くす者たち」「祈る者たち」は、いずれも律法学者のあり様を説明しています。「見せかけ」と訳した語には「言い逃れ・口実」という意味もあるので、「やもめの家を食い尽くしていることを隠すための言い逃れとして、長い祈りをする」という意味に取ることもできます。いずれにしても、この段落での「やもめ」は社会的に見て食い物にされやすい弱者として描かれています。

 金持ちとやもめ(41−44節)
 この段落では、大勢の金持ちの行為と比して、「貧しいやもめ」の態度が賞賛されます。この対比は、やもめが賽銭箱に入れたレプトン銅貨が当時流通した最小の通貨であることによってまず示されます。ルカ12章6節によると、当時五羽の雀(すずめ)が二アサリオン、換算しますと四レプトンですから、この貧しいやもめは、雀一羽を買えるほどの献金をしたことになります。献金の多寡(たか)でいえば、彼女の納めた「レプトン銅貨二枚」は誰よりも少ない額であったに違いありませんが、イエスは彼女を賞賛します。
 その理由が44節に述べられています。この節の前半と後半は見事に対応する文章になっています。
【節前半】 皆は有り余る中から入れた。
【節後半】 この人は、乏しい中から自分の持っているものをすべて(入れた)、
生活費を全部入れた

 節前半では何を入れたのか、それを示す目的語がありません。しかし、節後半ではそれを「自分の持っているものをすべて(入れた)」とまず述べ、最後に念を押すように、「生活費を全部入れた」と繰り返します。
 貧しいやもめが入れたものは、生活を成り立たせる物質的なもの(お金)だけではありません。生活そのもの、生涯そのものをも投げ入れています。神が求めるのは金額の多寡ではありません。生活そのものであり、神に信頼して生きるその姿勢なのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音はイエスの公生活における最後の教えです。
 マルコ福音書において、イエスの主要な敵対者はファリサイ派の人々ではなく、祭司長や律法学者たち、すなわちユダヤ教の指導者たちです(14章1節)。今日の福音は「やもめの家を食い物にする」(40節)律法学者と、持ち物すべてを賽銭箱に入れるやもめを対比し、ユダヤ教の指導者たちと貧しいやもめによって代表される民衆とをはっきり区別します。
 さらにマルコは、「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた」(43節a)と記述し、43節b−44節のイエスの言葉を弟子たち(教会)に対する教えとして提示します。
 レプトン銅貨をやもめが二枚献げたということは、重要な意味を持ちます。なぜなら、彼女はこれを二つに分けて、一レプトンを手もとに保存することがしようと思えばできたからです。彼女の献げ物が意味していたことは、自分が次に食べる物でさえ神が与えてくださると神に信頼しなければならないということでした。彼女の献げ物は、今まさにイエスが献げようとしている献げ物を予め(あらかじめ)示しています。それは彼の命(十字架上の死)そのものです。やもめは「主は豊かであったのに、(私たち)のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、(私たち)が豊かになるために」(競灰螢鵐判8章9節)というイエスを示す者となっています。
 聖書の語る貧しさは、確かに物を持たない貧乏を意味しますが、それだけではありません。貧乏であるから人間的な力に頼ることができず、神に頼ります。これが聖書の語る貧しさです。
 だから、イエスの語る教えの新しさは教えの内容にあるのではなく、自分の教えをイエス自身が生きたことです。イエスは、神を信頼してすべてを、命そのものまでも献げます。「貧しい中からすべて」を献げたやもめは、イエスの弟子たち(教会)の模範です。人の力に頼れない貧しいやもめが、かえって神の目にかなうものとなったのです。
2021年11月7日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
●斜字部分は、原文では字下げが入っていますが、ここでは画面の幅が狭いスマートフォンでも読みやすいよう、墨つきカッコを使った書き方に変えております。
●また、その中で太字になっている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、太字で代用させていただきました。

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