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わたしの国は、
この世には属していない
―王であるキリストB年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音18章33b−37節

 ヨハネ福音書の枠組み
1章1−18節: 序文
 受肉したみ言葉(イエス)の道程についての紹介とその概要。
1章19−12章50節: 第一部 しるしの書
 み言葉は、自らを世と自分のものとされた人々に啓示しますが、彼らは彼を受け入れません。
13章1−20章31節: 第二部 栄光の書
 み言葉は、自分を受け入れる人々に、彼の死、復活、昇天をもって御父の元へ帰ることで自らの栄光を示します。彼は、完全に栄光にあげられて、命の霊を送ります。
21章1−25節: 結び
 神学的重要性をもちます。復活後のガリラヤにおける一連の出現。

 王であるキリストのB年の主日には、イエスがローマ総督ピラトの前で自分が王であることを宣言する箇所が朗読されます。ヨハネ福音書の第13章の荘厳な導入の句で始まる受難記は「栄光の書」と名付けられています。
 「王」という語は、ヨハネ福音書の第一部(「しるしの書」と名付けられています)では四回しか使われていないのに(1章49節、6章15節、12章13節・15節)、第二部の「栄光の書」では十二回、しかもピラトの裁判から十字架につけられる箇所に集中して使用されています。これを見ても、ヨハネは第二部で、「王としてのイエス」を描こうとしていたことが分かります。

 威厳に満ちた「王」
 ヨハネ福音書の中で、イエスの「啓示」が受け入れられ、救いをもたらす信仰、永遠の命にいたらせる信仰が人々の中に根づくとき、それを著者は「栄光」と呼びます。
 過越の祭りに来ていた群衆が、エルサレム入りするイエスを、なつめやしの枝をかざして歓迎します。ヨハネ福音書はこの歓迎の状況を、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」という、ゼカリア書9章9節の預言の成就とみなし、次の言葉をつけ加えています。「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき(受難・十字架上の死・復活)、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」(12章16節)。
 ヨハネ福音書の示す「受難物語中のイエス像」は、明白な自覚と意識―メシアであり、「受難・十字架上の死・復活」を通しての「あがない」の使命を遂行するのが御父のみ旨(みむね)であるとの―をもった、「強い、栄光に満ちた、神的な王」です。福音書は、18章・19章の「受難物語」の中で明白に「イエスが王である」というテーマを展開します。むろんヨハネ福音書のイエスも、逮捕され、裁判にかけられ、処刑されますから、「弱いイエス」に違いありません。しかし、そのイエスが同時に「栄光の王」であるところに、この福音書の掲げる(かかげる)イエス像の特色が見られます。従って、この福音書では、共観福音書に記述されているいくつかの情景が意識的に省かれています。それは、「王」の威厳にかかわる「屈辱的」な要素です。

 真理による王
 今日の福音のピラトとイエスの問答のテーマは「王権」です。ピラトにとって、「王」とは、政治的な王以外に何者でもありません。イエスにとっては「真理による王」なのです。
 「わたしの国はこの世には属していない」(36節)。イエスの王国、つまり「支配権の及ぶ対象」は、特定の領土、国民、政府、軍隊をもつこの世の国ではありません。次元の異なる国です。「それでは、やはり王なのか」(37節)。イエスの説明がよく分からない、要するにお前は王なのか王でないのかズバリ言ってみろと、もどかしげに尋ねるピラトに、イエスは答えます。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(37節)。イエスのこのあいまいな表現は、「わたしは確かに王であるが、ただ、『王』に付与する意味合いが、あなたとわたしでは違っている」という意味です。
 それでは、イエスの意味する「王」と何でしょうか。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」(37節)。ここでいう真理はイエスによってもたらされた啓示、イエスの教えを意味しています。ひいては「イエス自身」です。
 しかし、イエスの啓示行為だけでは、彼の王権は成立しません。啓示を受け入れる人々が必要です。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。イエスの声(啓示)を聞く(受け入れ、信じる)ことによって、「真理に属する」ようになる人が必要です。「臣下あっての王」ですから、イエスが王となるためには、「従属者(臣下、国民)」がいなければならず、臣下となるためには、イエスの啓示と愛の支配に身を置く、つまり、信じる人々がいなければなりません。その時初めて、「真理(の支配)による王権」が成立するのです。
 この「真理による王」は「受難(十字架上の死)による王」でもあります。ヨハネ福音書は、「真理(啓示)は、十字架上で最高度に実現した」と理解しています。だから、十字架を通して「栄光の王」となったイエスは、同時に真理を通しての「王」なのです。

 今日の福音のまとめ
 「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。イエスの声(啓示)を受け入れる人だけが、イエスに「聞く者」、つまり、その王国の構成員となります。「真理とは何か」(38節)とピラトはイエスに質問します。「真理そのもの」(14章6節)が目の前にいるのに……。「わたしの国はこの世には属していない」(36節)。この世に属するものにのみ目が向かうピラトは、結局はこの「真理」に触れることができないのです。
2021年11月21日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●冒頭の「ヨハネ福音書の枠組み」は、原文(Wordファイル)では四角で囲われ、複数のフォントを使い分けて構造的に書かれていますが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、簡略化した書式にさせていただきました。ご容赦を。
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