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人の子の前に
立つことができるように
いつも祈りなさい
―待降節第1主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音
   21章25−28節・34−36節


 典礼暦年に関する一般原則および一般ローマ暦(21頁)では、待降節を次のように説明しています。「待降節は二重の性質をもつ。,修譴呂泙此⊃世了劼梁莪譴陵萠廚鯆媛韻垢觜瀉造虜彭気里燭瓩僚猗期間であり、△泙親瓜に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間である。この二つの理由から、待降節は『愛と喜び』に包まれた待望の時であることが明らかになってくる」。
 待降節の初めに教会は終末におけるキリストの第二の来臨を記念します。英国教会のある典礼グループは、待降節を9主日にわたって、10月半ばから開始することを提案しています。第一主日は天地の創造、次いで人祖の罪、ノア、アブラハム、モーセというふうに、救いの歴史において重大な出来事を順を追って祝い、メシアの来臨を待ち望んだ旧約の民を記念し、それにあやかるというのです。この聖書配分は、/世了劼梁莪譴陵萠廚鯆媛韻垢觜瀉造里燭瓩僚猗期間として祝うという利点がありますが、その反面、⊇末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間としては欠点があります。

 主の日
 神がイスラエルの歴史の中に現れる日を預言者たちは「ヤーウェの日」と名付けました。この日は、神に逆らう者には滅びになりますが、神を敬い、神を愛する人には救いの日となります。新約聖書では、この「ヤーウェの日」に代わるものとして「主の日(イエスの来臨の日)」が登場します(今日の福音34節・35節のその日は「主の日」のことを指します)。
 イエスがご自分の受難と復活によって、終末の時代の幕を切って落とされたということは、初代教会全体の確信でした(ヘブライ書1章2節)。この確信に基づいて、新約の著者たちは終末に関する当時の表現を借用して、この信仰を表明しました。信者には、警戒して主を待つこと(A年待降節第一主日福音)、愛徳の実践によって主の来臨に備えること(マタイ25章14−46節)、清い生活を送ること(B年待降節第二主日第二朗読)が強く勧められ、典礼の場では、救いの完成である主の再臨を強く求める祈り、「マラナ・タ(主よ、来てください」がささげられていました(汽灰螢鵐判16章22節)。待降節は、まさにイエスの地上における現れ(終末時代の開始)と、栄光に満ちた再臨(終末の完成)を準備する期間なのです。
 「解放」(アポリュトローシス 今日の福音28節)は、奴隷や捕虜を自由の身にするために支払う「身代金・買戻し金」を意味しています。神学的には、神がキリストの死と復活によって罪や死から人を「解放する・あがなうこと」、または人が「解放されること、あがなわれること」を表します。今日の福音では「あがない・解放」は終末論的な意味で使われています。このときには、「あがない」はキリストの死と復活によって既に開始され、来たるべき終末の時キリストの再臨とともに完成される救いを表します。

 人の子が来るのを見る(25−28節)
 25−26節では、最初と最後に起こる異変が、「太陽と月と星に徴が現れる」と「天体が揺り動かされる」という表現で言い表されています。その間には、それを目にする「地上」の反応が描かれています。「諸国の民」は不安に陥り、「人々」は気を失うことになります。マルコの並行箇所(13章24−25節)では、天変地異を書くだけで、地上の人々が陥る不安については一言も触れていません。このことから考え、ルカは「諸国の民や人々」と「あなたがた」(28節)との対比を強調しています。
 27節の「人々は見る」の「人々」には、「諸国の民や人々」だけではなく、「あなたがた」も含まれています。人の子を受け入れ、その関わりを大事に生きて来た人は、人の子の到来を見るときに、「あなたがた」であることがあらわになります。「あなたがた」は、「諸国の民や人々」とは違って、頭を上げることができます。それが「解放(アポリュトローシス)」の時であることを知っているからです(28節)。

 いつも目を覚まして祈りなさい(34−36節)
 34節では「あなたがた」が取ってはならない生き方が語られます。放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍くなるなら、人の子との関わりが断たれていることのしるしですから、「その日」が不意に襲うことになります。聖書にとって「心」とは、感情の座というよりは、理性や意志の座です。心が鈍くなるなら、理性が石のように固くなって活発に働かなくなります。それで、天に「徴」が現れ(25節)、「解放(アポリュトローシス)」(28節)の時が近づいたことを見て取ることができず、「諸国の民や人々」と同じように、不安に陥り、恐ろしさのあまり気を失うことになります(25−26節)。
 一方、36節では「あなたがた」が取るべき生き方が語られます。起ころうとしていることから逃れ、「人の子の前に立つことができるように」生きるべきであり、そのためには「祈りなさい」ということが不可欠です。

 今日の福音のまとめ
 今日から私たちは待降節を迎えます。待降節は「愛と喜び」に包まれた待望の時です。お金がなくて苦しんでいる時に、「心配しなくてもいいよ。あなたのことなら、何でも喜んでするから」と言ってくれる友人がいれば、ありがたいことです。しかし、その時「楽しんでするから」とは言いません。ここではっきりすることは、「喜び」と「楽しみ」との区別です。「喜び」というのは、「楽しみ」を犠牲にして友人を助ける愛の行為から生じます。別の固い言い方をすれば、「楽しみ」は自己所有の満足感から生じるのに対して、「喜び」は友のための自己放棄に由来します。イエスは「人の子の前で立つことができるようにいつも祈りなさい」(36節)と命じます。待降節―「愛と喜び」をもってすべての人に祈りをささげ、神のひとり子の現れを待ち望みましょう。
2021年11月28日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文序盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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