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曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る
―待降節第2主日

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音3章1−6節

 第一段落:その時の状況(1−2節a)
 「皇帝ティベリウスの治世第15年」は当時のパレスチナの政治状況を思い起こさせます。この地方はローマの支配下に置かれている上に、何人もの領主に分かれており、人間的な野心が複雑に交差する場所になっていたことが、このような文章構成によって示されています。大祭司アンナスは紀元15年にローマ総督に解任されましたが、ユダヤ人は彼の職が継続しているとみなし、女婿である義理の子カイアファが大祭司在位中(紀元18−36年)もかなりの実権をふるったので、ルカは二人の大祭司がいたように記しています。
 ルカ福音書は、ヨハネの宣教活動をイエスの民を準備する使命、しかもこの使命をイエスに「先立って行く者」として表現しています。「彼(ヨハネ)はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1章17節)。「幼子(ヨハネ)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え(る)」(ルカ1章76節)。ルカ3章19−20節では、ヘロデによるヨハネの投獄が記されています。こうしてルカはイエスの活動の始まる前にヨハネの活動を終わらせます。彼の死によって旧約の終わりを示し、イエスの時の秩序が始まるからです。ヨハネの「先立って行く者」の使命は、洗礼者としてよりも宣教者としてでした。彼の最後の活動も「民衆に福音を告げ知らせる」ことです(ルカ3章18節)。
 しかしヨハネがイエスに先立って行くのは、イエスの民を準備するため(ルカ1章17節)です。イエスが救うべき民とは、ユダヤ民族だけでなく、異邦人を含めた「すべての民」(ルカ2章31節、24章47節)であり、「地の果てまで」の民(使徒言行録1章8節)です。したがって、イエスに先立って行くヨハネは、荒れ野で叫ぶ者の声として(ルカ3章4節)、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3章6節)と宣べ伝えます。そしてルカは、「すべての民」の救いを強調するために、ヨハネの宣教活動を、当時の地中海周辺の人々にとって全世界であると認識していたローマ帝国内の歴史的事件として、「皇帝ティベリウスの治世第15年」(ルカ3章1節)に位置づけ、描くのです。

 第二段落:洗礼者ヨハネは来た(2節b−4節a)
 第二段落を直訳すると、神の言葉が荒れ野のヨハネに降った。彼は来た ヨルダン川周辺へ 宣べ伝えながら 悔い改めの洗礼を 罪の赦しのために、イザヤの言葉の書に書かれているように となります(一部分を削除)。この段落は「言葉」で囲い込まれています。洗礼者ヨハネの到来は「神の言葉」の支配下で起こった出来事であり、しかも「イザヤの言葉の書」に預言されていたことの成就だったのです。このように言葉に守られて「来た」洗礼者ヨハネは、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えます。
 聖書の述べる「悔い改め」は生活の一部を手直しすることではなく、生きる姿勢全体を神へと方向転換することを意味します。このような方向転換が可能となるのは、「神の救い」(ルカ3章6節)がそこに来ようとしているからです。だから「悔い改めの洗礼」とは、悔い改めを与える洗礼という意味ではなく、悔い改め、つまり生きる姿勢の全面的な方向転換を表すしるしとしての洗礼という意味です。

 預言の言葉(4節b−6節)
 マタイとマルコの並行箇所でもイザヤ書40章を引用しますが、両者はイザヤ書40章3節(今日の福音では4節にあたります)だけの引用にとどめています。ルカがイザヤ書40章4−5節(今日の福音では5−6節にあたります)をも引用したのには理由があります。
 第三段落はイザヤ書40章3−5節からの引用です。直訳すると、叫ぶ者の声が 荒れ野に、あなたがたは準備しなさい 主の道を、真っ直ぐにしなさい 彼の小道を。どの渓谷も 満たされるだろう どの山も丘も 低くされるだろう となります。「あなたがたは準備しなさい、真っ直ぐにしなさい」とありますから、人間の参加が求められているのは、確かです。しかし、「満たされるだろう、低くされるだろう」というように、神が行動の主体であることを表す神的受動形が続きます。神もまた参加します。
 ヨハネの呼びかけに応えて、主を迎える道を準備し始めるのは「あなたがた」ですが、それを完成させるのは、神です。私たちが準備しようと決断しても、深い谷や越えにくい山、どこまでも続く丘やでこぼこで歩きにくい道にぶつかれば、決意も鈍ってしまいます。しかし、悔い改めて準備を開始すれば、神が手助けして、主の道を完成させてくれます。ルカがイザヤ書40章4節を引用したのはそれを述べるためです。
 さらに、ルカがイザヤ書40章5節をも引用したのは、「主の栄光がこうして現れるのを(すべての)肉なる者は共に見る」という句があるからです。ルカ2章30節以下「シメオンの賛歌」にも「万民のために整えてくださった救い」とあるように、ルカはすべての民が「神の救い」(ルカ3章6節)にあずかることを好んで強調しています。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音では、洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声」とされ、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(4節)と告知します。この呼びかけに応えて主を迎える道を準備するのは私たちですが、神もまた参与する作業です。そのとき、曲がった、でこぼこである「主の道」が平らな道となり、その上を「神の救い」を運ぶイエスが私たちのもとにやって来るのです。
2021年12月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。
●本文序盤で「下線+斜字(イタリック)」にしている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+斜字(イタリック)で代用させていただきました。ご容赦を。

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