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主において喜びなさい
―待降節第3主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音3章10−18節

 尋ねる群衆(10−14節) ※太字はギリシア語原文の直訳
10節 そして 尋ねていた 彼に 群衆たちは 言いながら、「それでは何を 我々は行うべきか?」
11節 だが答えて 彼は言っていた 彼らに、「二枚の下着を持つ者は 分け与えなさい 持たない者に、そして 食べ物を持つ者は 同様に 行いなさい」
12節 だが来た 徴税人たちもまた 洗礼を受けるために そして 彼らは言った 彼に向けて、「先生 何を 我々は行うべきか?」
13節 だが彼は 言った 彼らに向けて、「何も あなたがたに命じられたもの以上に多くのものをあなたがたは取り立てるな」
14節 だが尋ねていた 彼に 兵役についている者たちもまた言いながら、「何を 行うべきか 我々もまた?」 そして 彼は言った 彼らに、「誰をも あなたがたはゆするな また あなたがたは偽って告発するな そして あなたがたは満足しなさい あなたがたの給料に」


 今日の福音の直前(7−9節)で、洗礼者ヨハネは、厳しい裁きの言葉を告げて群衆に悔い改めを迫ります。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りに免れると、誰が教えたのか……良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。
 これに応答し、真の救いにあずかりたいと願った群衆や徴税人や兵士たちが、次々と洗礼者ヨハネのもとに来て「我々は何を行うべきか」(10節・12節・14節)と「尋ねました」(動作の反復や継続を表す未完了過去形)。自分の生き方を反省し始めた彼らは、今までの生活とは劇的に違う生活を心に描いていたかも知れません。しかし洗礼者ヨハネの答えは、拍子抜けするほど平凡なものでした。群衆には「分け与える」(11節)ことを、徴税人には規定額以上の税を「取り立てるな」(13節)ということを、兵士には「ゆするな、偽って告発するな、自分の給料で満足する」(14節)ことを求めています。ヨハネは、ゆがんだ日常生活を捨て、荒れ野に出て厳しい修行に入れと命じたのではなく、今の生活で出会う隣人を大切にせよと教えています。

 待ち望む民(15−18節) ※太字はギリシア語原文の直訳
15節 だが待ち望んでいて 民は そして 考えていて 皆が 彼らの心において ヨハネについて、もしかしたら 彼は キリストでは?
16節 答えた 言いながら すべての者に ヨハネは、「私は 確かに 水で 洗礼を授ける あなたがたに。だが来る もっと力のある方が 私より、その方の 私は適していない 解くのに その履物のひもを 彼は あなたがたに 洗礼を授けるだろう 聖なる霊と火において
17節 その方の 箕が 彼の手において 完全にきれいにするために 彼の脱穀場を そして 集めるために 麦を 彼の倉の中へ、だが 殻を 彼は焼き尽くすだろう 消せない火で」。
18節 またそこで多くのことを そして 他のことを 勧めながら 彼は福音を宣べ伝えていた 民に


 この段落は15節の「民」と18節の「民」で囲い込まれています。10−14節に登場した「群衆、徴税人、兵士」がここでは「民」として登場します。ルカ福音書の「民」は準備のできた「民」を意味しています。「(ヨハネは)準備のできた民を主のために用意する」(1章17節)。ヨハネによって、ここで雑多な人々が準備のできた民に変えられています。
 この民の特徴は「待ち望む」(15節)ことにあります。新共同訳は「メシアを待ち望んでいて」と訳していますが、原文では「メシアを」が欠けています。それを明記しないことによってかえってメシアを待ちわびる彼らの熱心さが表されています。
 ヨハネの「水による洗礼」(16節)は、聖霊によって救いをもたらす洗礼への準備段階として悔い改めをあらわすしるしとしての洗礼です。だから、ヨハネは水で洗礼を授けるよりも「もっと力ある方」の登場を予告します。その方は「聖なる霊と火において」洗礼を授けます(16節)。ここでの洗礼は個々人の洗礼ではなく、この世にキリスト者という在り方を誕生させる「聖霊降臨」(使徒言行録2章1節以下)を指しています。

 今日の福音のまとめ
 今日の聖書朗読のテーマは「喜び」です。第一朗読では、捕囚によってエルサレムから散らされた民が帰還する喜びが述べられます。エルサレムは「喜び叫べ」「喜び踊れ」と命じられています。喜ぶことができるのは、主が裁きを退け、敵を追い払ったからであり、主がエルサレムの中におられるからです。やがて人々のただ中に独り子イエスは来られます。
 第二朗読の冒頭にある「主において」(4節)を直訳すれば、「主の中で」となります。エルサレムの神殿は確かに神と人との接点ですが、地上の一箇所に限定されています。パウロは「主イエス・キリスト」の中に接点を見いだしました。イエスが接点となりましたから、聖霊の働きによって、どこにいても神と交わり、「主において」喜ぶことができます。
 今日の福音では、ヨハネは「どうすればよいのですか」と尋ねる人々に、今の生活で出会う隣人を大切にせよと教えます。信じることは必ずしも日常を捨て去ることではなく、自己中心的な生き方を捨て、主イエス・キリストを中心に生きることを意味しています。クリスマス―神の独り子が私たちのただ中に来られます。私たちには聖霊が与えられています。聖霊の働きによって、隣人と手を携え、「主において」喜びのうちに生きる道が開かれます。
2021年12月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。「※太字はギリシア語原文の直訳」の「太字」も原文では「ゴシック体」です。また、それらの部分は原文では節ごとに字下げされていますが、字下げも難しいので省かせていただきました。ご容赦を。
●本文中で「下線+斜字(イタリック)」にしている部分は、原文では文字が四角で囲まれていますが、Web上でそれは難しいので、下線+斜字(イタリック)で代用させていただきました。

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