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エリサベトは聖霊に満たされた
―待降節第4主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音1章39−45節

 第一朗読:ミカ書5章1−4節a
 第一朗読は、イスラエルを豊かに養う新しい指導者についての予告です。次の二つのことが目を引きます。第一は、「エフラタのベツレヘム」から出るとされていることです。サムエル記上17章12節によると、ダビデの父エッサイは「ベツレヘム出身のエフラタ人」です。エフラタ族は「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」とある通り、小さい氏族でした。この小さな氏族から、ダビデを受け継ぐ理想のメシア王が出る、とミカは告げます(1節)。
 この王は、この地上の諸力に信頼せず、「主の力」と「主の御名の威厳」によって群れを養います。小さな氏族から出るこの王は群れを苛酷に支配せず、むしろ手厚く養います。ですから、群れは「安らかに住まう」ことができるのです(3節)。
 第二は、「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」と述べられていることです。このような表現によって、神の救済の意志は永遠の昔にまでさかのぼるほど古く、神は必ずメシア王を遣わすという確信が表明されています(1節)。永遠の昔からの救いの計画を地上に運ぶこの王は小さな氏族から生まれますが、その彼は「大いなる者」となります。なぜなら、地上の力によらずに主の力に依り頼む彼は、かえって、その力を「地の果てに」まで及ぶことになるからです。小さな者から大いなる者が誕生します(3節)。
 4節の「彼こそ、まさしく平和である」とは、「これこそ、まさしく平和である」とも訳すことができます。それは力の均衡による平和ではなく、人間の力を捨て、神の力に身を委ねることによって生じる「平和」です。
 ミカの生きた紀元前8世紀は、動乱の時代でした。平和を求めるミカの祈りに応えて、いと小さきベツレヘムの町に「みことば」(ヨハネ1章1節)であるキリストが人となって生まれます(マタイ2章5−6節)。

 第二朗読:ヘブライ書10章5−10節
 第二朗読は、5節で「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしたちのために体を備えてくださいました」と述べます。イエスがこの世に来る前、つまり、旧約の律法が定める献げ物をささげた時代には、罪を取り除いてもらうために動物のいけにえを「年ごとに」繰り返しささげなければなりませんでした。繰り返さなければならない、つまり完全に罪を取り除くことのできない献げ物やいけにえを神は「望みもせず、好まれない」と言います(8節)。そこで、神はイエスのために「体を備えました」(5節)
 それは、旧約の律法が定めた備え物やいけにえを終わらせるためです。イエスは「体」をささげることによって、罪を完全に取り除きました。イエスの「体」は、「ただ一度」ささげられましたから、罪は「完全に」取り除かれたのです(10節)。その神の思いを強調するために、7節と9節では「御心を行うために」が繰り返され、10節では「この御心に基づいて」と述べられています。
 「最初のもの」(10節)とは「律法に従ってささげられる礼拝制度」を指し、「第二のもの」(10節)とは「イエスを通して実現された神の御心に合った礼拝制度」を表します。

 福音:ルカ1章39−45節
 41節−42節aを直訳すれば、そして 起こった エリサベトがマリアの挨拶を聞いたときに、跳ねた 幼子が 彼女の胎の中で、 そして 満たされた 聖霊で エリサベトが そして 彼女は張り上げた 大きな叫び声を、 そして 彼女は言った、
 「起こった」で始まる文章をルカは好んで用いますが、この構文は段落の初めか、あるいは重要なことを述べるときに使われます。だとすれば、ルカはこの部分に重要な主張を込めているはずです。
 この部分は、44節のエリサベトの言葉に繰り返されていますが、両者を比較すると、面白い違いがあるのに気づきます。エリサベトは「マリアの挨拶を聞いたとき、胎の中で幼子が跳ねた」(直訳)ということには言及しますが、「聖霊でエリサベトが満たされた」(直訳)ということにはまったく触れていません。このことから考えると、胎内で幼子の動きを感じたエリサベトは、そこに不思議な力が働いているのは自覚していますが、それが「聖霊」の結果だとは気づいていません。
 ルカが「起こった」で始まる強調構文を用いたのは、「エリサベトは聖霊で満たされた」という彼女自身も気づいていない事実を強調するためだと思われます。

 今日の朗読のまとめ
 待降節第4主日のテーマは「みことばは人となった」です。第一朗読のミカ書では、「主の力、主の御名の威厳をもって」群れを養う方(かた)が立つとき、「安らかに住まう」ことができると説かれます。動乱の中で人生を「安らかに」過ごしたいと思うミカの言葉に応えて、神は、「みことばは人となった」方(かた)として、キリストを遣わします。
 第二朗読のヘブライ書では、神がキリストのために「体を備えた」と述べます。これは受肉を表すだけでなく、十字架にかけられたイエスの「体」が、旧約の律法の定めるすべてのいけにえを越える贈り物であることを示します。
 今日の福音の主人公は聖霊です。エリサベトは胎内の子がおどったとき、不思議な力が働いていることに気づいていますが、それが「聖霊」によるとは理解していません。肉の目では聖霊の働きは見えません。肉の目から解放され、霊の目を与えられていなければ、キリストを「みことばは人となった」方(かた)として迎えることができないのです。
2021年12月19日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
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