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主の降誕(夜半・日中) 聖家族

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

(1) 2021年12月24日分

あなたがたは、
飼い葉桶の中に寝ている
乳飲み子を見つけるであろう。
これが
あなたがたへのしるしである。
―主の降誕(夜半)

  ルカによる福音2章1−14節

 イエス誕生の出来事の意味で見落とせないことは、イエス誕生の場所から離れた所で、しかも町の権力者や支配階級、大金持ちの人たちでなく、ベツレヘムの野原で夜勤をしていた羊飼いたちに対して―彼らは尊敬されていたとは必ずしも言えない人たちです―明かされたことです。天使はその羊飼いたちに救い主の見つけ方を言います。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)と。普通のベビーベットではなく、羊や山羊(やぎ)のエサとなるワラや牧草の入った飼い葉桶の中に寝かされている「小さな」「弱い」「貧しい」赤ちゃんが「救い主のしるし」だと言うのです。神は今も、こういう「小さな」「弱い」「貧しい」しるし、注意していないと見過ごしてしまうようなしるしで、私たちのところへ到来するのです。
 救い主は約二千年前の「今日」生まれただけではありません。私たちは今日、自分の「小ささ」「弱さ」「貧しさ」を見つめましょう。そして、周りにいる人たちの「小ささ」「弱さ」「貧しさ」に心を留め、思いやりましょう。そこに「救い主のしるし」である飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける「今日」、私たちの心の中に救い主が再び生まれるのです。


(2) 2021年12月25日分

言が肉となった
―主の降誕(日中)

  ヨハネによる福音1章1−18節

 なぜ、イエスのことを「言(ことば)」と呼ぶのでしょうか。それはヨハネ福音書が「啓示の書」だからです。啓示とは、神がイエスを通して自分を人々に教え示すことです。そういう意味で、イエスは「肉となった言」、すなわち、この地上における生涯の「初め」から神と共にあって、神を啓示する者であり、「万物」(=神の救いの計画のすべて)は「言であるイエス」によって、啓示され、実現した(=成った)のです(1−3節)。
 「言(=イエス)」を信じる人々に与えられるのは「神の子となる資格」です(12節)。「私を信じる者は、永遠の命(父・子・聖霊の交わりにあずかる形の神的な命)を得る」(6章40節)という言葉と並べると、それは「神から生まれた者」として、イエスと交わり、共に「父なる神の子」になることです。私たちをこのような状態にまで高める神の救いの計画(=イエスの十字架上の死)をヨハネ福音書は「栄光」と呼びます。イエスは「父の独り子としての栄光」を帯びておられ、「恵みと真理(=真理という恵み)」に満ちています」(14節)。真理とは「イエスがもたらした啓示」の内容です。モーセによって与えられた律法による啓示のあと、イエスによる真理の啓示の時代が到来したのです(17節)。言が肉となって、神の啓示が見える出来事となって、私たちを神の子とし、父まで導いてくれるのです。


(3) 2021年12月26日分

沈黙・家庭生活の教訓・労働の教訓
―聖家族

  ルカによる福音2章22−40節

 パウロ6世教皇は聖家族の祝日の教会の祈りの中でナザレの模範を挙げます。

 沈黙
 今日の第二朗読(ヘブライ書11章8・11−12・17−19節)で読まれるのは、アブラハムとサラの信仰の模範で、アブラハムが行き先も知らずに出発したこと(8節)、サラが子をもうける力を得たこと(11節)、アブラハムがイサクを献げたこと(17節)が挙げられています。これらの行為について読み直しますと、アブラハムは神に召し出され、それに従ったから出発し、サラは神が為した(なした)約束を信頼できると考えたから子をもうける力を得、アブラハムは神から試練を受け、それに応えたことになります。つまり、これら模範とされる行為には神との応答関係があることが分かります。特に8節はその典型と言え、「召し出す」「服従する」と訳された言葉は原文では「呼ぶ・名を呼ぶ」「従う・聞く」を意味する動詞が使われます。神がある人に呼びかけ、その人が神の言葉を聴くことに信仰的行為の基盤があります。
 マリアとヨセフは、シメオンの言葉を聞いて「驚きます」(33節)。驚きこそ、信仰への出発点であり、シメオンの腕に抱かれた幼子の神秘を悟るための「祈り」の必要と価値を、今日の福音のマリアとヨセフの「沈黙」から学び取りましょう。

 家庭生活の教訓
 ルカ福音書の1−2章に登場する人物は、ザカリアにせよエリサベトにせよ、またシメオンにせよアンナにせよ、すべて老人であり、その模写も旧約の色彩を色濃く残しています。
 ルカがこのような高齢者を登場させたのは、「幼子」と対比させるためであり、旧約時代が終わりを告げ、新約時代の幕が切って落とされたことを印象づけています。
 イエスは、旧約のユダヤ教の律法に代わる新約のキリスト者の掟として「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と命じます。  
 家庭は社会における最少単位の愛の共同体であり、人間が初めて出会う愛の共同体です。家庭における教育がいかに愛をはぐくみ、ほかに代わるものがないということを、社会に対する家庭の絶対的な役割を悟りましょう。

 労働の教訓
 幼子は「反対を受けるしるしと定められています」(34節)とのシメオンの指摘は、十字架上のイエスの姿に示されています。イエスを受け入れなかった人々は、「反対を受けるしるし」として彼を十字架の上に挙げました。しかし、その十字架上のイエスこそ、神と人間を結び合わせる救い主だったのです。
 パウロ6世教皇は、聖家族の模範に学ぶ「労働の教訓」を述べます。「労働の尊さをもう一度自覚し、労働それ自体が目的でないこと、労働の自由と尊厳はその経済的な価値からだけではなく、労働が最終的に目指す諸価値からくることを思い出させたいのです」と。
 十字架上のイエスの姿は、そのイエスを選ぶかどうか私たちにその思いを明らかにするよう迫ります。社会には「労働」に対する考え方が多くあります。キリスト者として「労働の教訓」に学ぶかどうか私たちにその思いを明らかにするよう迫るのです。
2021年12月24日(金)、25日(土)、26日(日)
鍛冶ヶ谷教会 説教