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学者たちは星を見て
大喜びで礼拝した
―主の公現C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マタイによる福音2章1−12節

 学者たちの態度(1−2節)
 ヨセフに現れた天使は、マリアから産まれる子について「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1章21節)と告げていました。そのイエスがヘロデ王の治世に誕生したとき、東方の占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」の誕生を示す「星」を見ました。罪から人を救う幼子の誕生は、星によって、異邦人に知らされます。この幼子による罪からの解放はユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶからです。
 「占星術の学者たち」(マゴス 博士や王とも訳します)とは、本来ペルシアの祭司(ゾロアスター教)で、天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈をよくし、人の運命や世の動きについて神意を伝える人たちでした。この学者たちが東方(おそらくアラビヤかペルシア)からはるばるメシアを求めてやって来ました。
 旧約聖書に次のような話があります。モーセがイスラエルを率い、イスラエルの地に入ろうとしたとき、彼を殺そうと考えた悪王に出会います。モアブの王バラクです。王は東方からバラムという占星術の学者―要するに、イエスの時代に博士(マゴス)と呼ばれていた者―を呼び出します。彼は、二人の若者を従えてやって来ます(民数紀22章22節)。
 バラムは、イスラエルの将来について好意的な幻を見ます。「一人の男の子がイスラエルの種から生まれ、多くの国を支配する。……私には彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。一つの星がヤコブから進み出る。一つの笏(しゃく)がイスラエルから立ち上がる」(民数紀24章7節、17節、7節はギリシア語の70人訳)。この章句はダビデの出現に関するものです。ダビデこそは、バラムが予見した星であり、ユダヤの国の王笏(おうしゃく)を与えられた人と理解されています。旧約聖書のバラムがダビデの星の昇るのを見たように、新約聖書の占星術の学者たち(マゴス)はユダヤ人の王(2節)の星の昇るのを見ます。
 学者たちは星を見ると、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝む」ためにエルサレムに来ました。「ユダヤ人の王」という称号は、十字架上の罪状書きに書かれた称号(27章)ですから「罪の贖い(あがない)」をほのめかす称号です。「罪の贖い」とは、イエスの命がお金であり、失ったもの(罪)を買い戻すことを意味します。「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章45節)。「神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた(おとしいれていた)証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ書2章13−14節)。

 ヘロデ王の態度(3−8節)
 だが、「ユダヤ人の王」の誕生は、ヘロデ王には「不安」を引き起こす要因でしかありませんでした。彼は、聖書に詳しい宗教指導者を呼んで、メシアはどこに生まれるのか、その場所を「問いただし」(3−6節)、星の動きに詳しい学者たちを呼んで、星がいつ現れたのか、その時期を「確かめました」(7節)。
 彼は学者たちをベツレヘムに送り出すとき、「私も行って拝もう」(8節)と述べていますが、今日の福音に続く13節以下に描かれているように、その真意は幼子を抹殺(まっさつ)することにあります。彼は自分の地位が脅かされるのではないかと不安に駆られています。

 再び、学者たちの態度(9−12節)
 学者たちはベツレヘムに行く途中、故国で見た星を再び見て、「喜びにあふれました」(10節)。その星の下では、幼子は母マリアと共におられます(11節)。学者たちはそれを見るから、喜んだのです。
 幼子を見て、礼拝した彼らは、かけがえのない高価なものを献げます(11節)。人間を解放する王(幼子)に出会った彼らは、人間を殺す王(ヘロデ)のもとにはもはや戻らず、「別の道を通って」故国へ帰って行きました(12節)。

 今日の福音のまとめ
 幼子がいつ、どこで、どのように生まれたかを詳細に記述するルカ福音書に対して、今日の福音(マタイ福音書)は、幼子誕生に対して人々が取った態度を述べることに重点を置いており、ヘロデ王と学者たちの態度を対比しています。

1−2節
東方から学者たちがユダヤ人の王の誕生を示す星を見て礼拝するために来た。
3−8節
ヘロデ王は不安を抱き、星について問いただした。拝もう。しかし……。
9−12節
学者たちは星を見て大喜びで礼拝した。


 今日の福音は上に示したように、三つの段落に分けられ、それぞれの段落には「星」と「礼拝する(拝む)」とがキーワードとなっています。
 そして、幼子をはさんで、まったく異なる二つの人物が対比されています。一方には、星によってメシアがどこに生まれるかを知っていても、礼拝しようとしないヘロデ王がいます。この人は自分のこの世の権力の魅力に縛られています。そのような彼の目には、幼子の到来が持つ意味(罪の贖い)が見えません。この人の対極には、星を見て、幼子を礼拝するために、遠い道をやって来る学者たちがいます。彼らは星のしるしに心を開いています。
 私たちにとっては、この対比は、喜んでキリストを受け入れるという自分の心のある部分と、この世のものに縛られ、断固してキリストの支配を拒絶する自分の心の闇の部分との対比を象徴しています。自分の内にヘロデを認めるまでは、ヘロデのことをあざけってはいけないということなのです。あざける……ばかにして笑う。
2022年1月2日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文終盤で斜字(イタリック)にしている部分は、原文(Wordファイル)では四角で囲まれていますが、Web上でそれは難しいので斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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