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イエスは
民と共に洗礼を受けた
―主の洗礼C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音3章15−16節・21−22節

 救いを受け入れる準備のできた民(15−16節)
 今日の福音は「民衆はメシアを待ち望んでいて……」で始まりますが(15節)、ここで「民衆」と訳された語は、ルカ福音書1章17節での洗礼者ヨハネの誕生を告知する天使の言葉―「(ヨハネは救いを受け入れる)準備のできた民を用意する」―では「民」と訳されています。ギリシア語原文では同じ言葉ですから、今日の福音に登場する「民衆」とは「救いを受け入れる準備のできた民」のことだと言えます。
 洗礼者ヨハネのもとに集まった群衆や徴税人や兵士たち(10−14節)が「救いを受け入れる準備のできた民」に変えられれば、彼らの目がメシアへ集中し、もしかしたら洗礼者ヨハネこそメシアではないかと期待をふくらませるのも当然です(15節)。  
 そこで、ヨハネは「皆に向かって」語りかけますが(16節)、この「皆に向かって」はマルコの並行箇所(マルコ1章7節)には欠けています。もちろん、ここでの「皆」はヨハネのもとに集まった人々を指しますが、それだけでなく、いつの日か「民」となる人たちをも含意する「皆」です。というのは、ルカはイエスによる救いは全世界を覆うべき普遍的な出来事だと強く意識しているからです。ですから21節でも「民衆洗礼を受け……」と述べ、ヨハネによる救いの準備が着々と拡大している様子を描き出しています。
 洗礼者ヨハネは、救いへのこの待望(15節)を自分にではなく、さらに「優れた方」に向けるようにと呼びかけます(16節)。ヨハネは「水」で洗礼を授けますが、それは「悔い改めの洗礼」(3章3節)であり、「主の道を整え」(3章4節)るための準備にすぎません。しかし、その方は「聖なる霊と火において」(16節の直訳)洗礼を授けます。この洗礼は個々人を対象とする洗礼ではなく、すべての者を含み込む「聖霊降臨」という出来事を指します。メシアを通して引き起こさせる救いの出来事は、すべての人々を新しい段階へと招き込む力であり、洗礼者ヨハネの使命は、民の期待をこの優れた方へと向けることにあります。

 民衆が皆洗礼を受け、イエス、洗礼を受けた(21−22節)
 今日の福音の後半では、民衆とイエスの洗礼とそれに対する神の応答が描かれます。21−22節はひと続きの文章であり、民とイエスの洗礼について述べる21節が従属文、神の応答を述べる22節が主文となっています。このような構文から考えると、ルカは洗礼そのものよりも、むしろその後に起こった聖霊の授与と神の声に強調点を置いています。
 それでルカは、イエスに洗礼を授けたはずのヨハネの名を書こうともしません。また、ルカは洗礼という出来事そのものではなく、イエスが民衆と共に洗礼を受けたという事実に目を向けさせようとしています。「救いを受け入れる準備のできた民」が洗礼を受け、そして「イエスも」共に洗礼を受けたのは、イエスが「民」と一つに結ばれて救いへの道を歩み出すためです。
 洗礼直後のイエスの体験である顕現の物語は、三つの部分に分かれます。第一が「天が開けた」です。この表現は、旧約の預言者イザヤが、天が開け、神が出エジプトのときのように再び訪れるよう祈ったこと(イザヤ書63章19−64章3節)を思い出させます。新たな出エジプトは、新たな時代の始まりです。
 第二に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降り」ます。鳩はイスラエルの象徴です。従って、イエスが鳩によって象徴されるものとして聖霊を受けたということは、救われるべきイスラエルの民の代表者として霊を受けたということです。「目に見える姿で」という句はルカ独特であり、聖霊降臨が目に見える確かなものであり、思想や感覚と混乱させるべきものではないということを、この言い方で述べられています。
 顕現の物語の第三の部分は、天からの声です。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(22節)。聖霊降臨と天からの声によってイエスの神の子としてのすぐれた身分を証しします。

 今日の福音のまとめ
ルカは、15−18節と21−22節の間にヨハネの入獄(19−20節)をはさむことによって、非常に巧みにイエスの洗礼と洗礼者ヨハネの洗礼を区別します。
 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受け」ます(21節)。21節では、イエスは誰から洗礼を授かったのかさえ言わずに、ただ神の顕現、つまり聖霊が目に見える形をとって降ったことと、天からの声のことを報告するだけです。
 また、罪と何の関わりもないイエスが「民と共に洗礼を受けた」のは理屈から言えば、奇妙かも知れません。しかし、それほどにまでして、イエスは民(私たち)と一つになります。一言で言うと、私たちの受ける洗礼の原型がここに示されているのです。
 ルカでは、イエスの受難を指すのに「洗礼」という用語が用いられているルカ12章50節を除くと、福音書の中でも使徒言行録の中でも、洗礼(バプテスマ)という語はいつも洗礼者ヨハネの洗礼を表します。キリスト教の洗礼を指すには必ず動詞形、しかも受身の形が用いられています。ヨハネは「民衆洗礼を受け……」と述べますが(21節)、後(のち)にキリスト者となる人たちをも含意する「皆」です。つまり、キリスト者とは、教会を通してイエス・キリストによって「洗せられた者」、すなわち、イエスと一つに結ばれ、聖霊の賜物を受けるべく予定された者です。イエスが今日授かった洗礼はまさに聖霊と火によるキリスト教的洗礼の予告であり、発端なのです。
2022年1月9日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教