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お言葉ですから
―年間第5主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:汚れた唇の者も
  (イザヤ書6章1−2節a)

 エルサレム神殿にいたイザヤは、幻の中で「高く天にある御座に主が座しておられる」のを目にします。神の「衣の裾(すそ)」だけが神殿いっぱいに広がっていたとありますから、天の神殿と地上の神殿とがひとつに結合されています(1節)。
 そこにはセラフィムもいて(2節)、互いに「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と唱えあっています(3節)。セラフィムは、イザヤでは三対の翼(さんついのつばさ)を持ち、人間の手と声を持ち、神に仕え、人間と神とを仲介する存在として登場します。
 すると、神殿の敷居(しきい)が揺れ動き、煙に満たされます(4節)。それによって神の顕現を知ったイザヤは、「災いだ。私は滅ぼされる」と口にします(5節)。神の聖性は汚れをはねつけ、罪ある者を滅ぼす力があるからです。イザヤも「汚れた唇の者。汚れた唇の民の中にある者」ですから(5節)、死の恐れにおののくのも当然です。
 すると、セラフィムのひとりが、祭壇から取った炭火をイザヤの唇に触れさせ、「あなたの咎(とが)は取り去られ、罪は赦された」と宣言します(6−7節)。
 こうして罪が消されたとき、今まで沈黙していた神が口を開き、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と発言します。この問いを耳にしたイザヤは「私がここにおります。私を遣わしてください」と名乗りをあげます(8節)。
 こうしてイザヤの預言者としての四十年にわたる生涯が開始されますが、彼の言葉は常に人々に無視されました。そのたびに、イザヤは召命体験を思い出し、そこから新たな力を汲み取り、使命を続行したのだと思われます。

 第二朗読:月足らずに生まれた者も
  (汽灰螢鵐判15章1−11節)

 パウロは、復活のキリストが現れた自分を「月足らずで生まれたような私」と言います(8節)。これは、9節に「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中での一番小さな者であり……」とあるから、「一番小さな者」という意味でしょう。パウロにキリストが現れたのは、神が一方的に与えたくれた恵みであるから、パウロがここに自分の召命体験を書き込むことによって、キリストの復活による救いは神の恵みだといっそう強く主張していることになります。パウロが自分のことを「月足らずで生まれた者」と呼んだのは、分派争いに汚されたコリントの教会を意識していたからに違いありません。神の前に謙虚に立つことこそキリスト者の根本姿勢だからです。

 福音:私は罪深い者なのです
  (ルカ5章1−11節)

 今日の福音は、ヨハネ福音書が伝えている復活後の不思議な漁の出来事(21章1−13節)と多くの点で似ています。今日の福音では、イエスが「主」(キュリオス=本来は復活したイエスの呼称)と呼ばれ(5−8節 しかもペトロはイエスの足もとにひれ伏してこう呼びます)、また、ヨハネ福音書と同じようにペトロが「シモン・ペトロ」と呼ばれており(8節)、さらに「私は罪深い者なのです」という告白は、受難の場面で、ペトロが主を否んだことを前提にすると、もっとよく理解できます。イエスの「恐れることはない」(10節)も復活用語の一つです(マタイ28章5節など)。おそらく復活後の出来事をルカが先取りした型でペトロの召命物語のために使用したものと思われます。召命の背後には、復活した主の働きがいつも隠されているのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の聖書朗読は、イザヤとパウロ及びシモン・ペトロの召命の由来を伝えます。いずれの場合も、強調されているのは、お召しになる神(キリスト)の積極的な働きかけです。パウロに復活のキリストが現れ呼びかけたように、ペトロが大漁の恵みを見たように、そしてイザヤが火で清めを受けたように、神の恵みと救いに出会うことがなければ、人は神を信頼することができません。
 今日の福音でイエスは、「網を降ろし、漁をしなさい」と命じます(4節)。シモンは「私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と述べます(5節)。ここでの「獲る(とる)」は一人称複数形です。しかし、シモンは続いて「お言葉ですから、(私は)網を降ろしてみましょう」と述べるとき、一人称単数形の動詞に替えます。複数形から単数形への交替は、網を降ろしても無駄だと決めこむ漁師たちと、それでも網を降ろそうとするシモンの対比を表しています。
 漁師の経験や常識から考えれば、網を降ろしても獲れるはずがありません。シモンがそうするのは、「お言葉ですから」と述べているように、イエスの言葉だからです。シモンは自分の経験や常識を捨て、イエスの言葉に従います。シモンはイエスの言葉に従ったので大漁となりました(5−6節)。つまり、イエスの言葉に従った結果、イエスの言葉が出来事となって現れるという神の力に出会います。
 この出来事を体験したシモンはイエスの前にひざまずいて「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と告白します(8節)。シモンが大漁に表された神の恵み、神の救い、神の力が、自力ではなく、イエスの言葉を全く信頼するものであることを認めることは、今まで神を信頼していなかった自分を罪人として認めることなのです(8節)。だから、イエスはシモンに「恐れることはない」と語りかけます。それは、それまでの生き方からの解放、新しい生き方への招きなのです。新たにされたシモンにイエスは使命を与えます。「人間をとる漁師」と訳された表現を直訳すれば、「人間を捕らえて生かす者」となります。ルカは今日の福音によって、奇跡を報告するというよりも、イエスの呼びかけ(召命)に応じたシモン・ペトロに始まる新しい共同体(教会)の誕生という出来事を伝えているのです。
2022年2月6日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教