印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


貧しい人々は幸いである、
神の国はあなたがたのものである
―年間第6主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音
   6章17節・20−26節


 貧しいと呼ばれている人々とは?
 今日の福音のイエスの説教は、平地でなされたのであって(17節)、マタイのように山上ではありません(マタイ5章1節)。平地での群衆は、三つのグループから成っています。使徒たち(イエスは彼らと一緒に山から下りての「彼ら」)、弟子たち、及び民衆です(17節)。ルカは、民衆が、南はエルサレムからユダヤ、北はティルスやシドンから来ていたと述べることで、イエスの宣教とメッセージがユダヤ全土に及んでいたことを語っています。ティルスやシドンを言及することは、ユダヤ人の聴衆と同様、異邦人の聴衆の存在も暗示しています。また、ここでの聴衆が病人や苦しんでいる者たちもいたことも確実です(6章18節)。
 「貧しい人々」とはまず弟子たちです。「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(20節)。しかし、説教の終わりでルカは、「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから……」(7章1節)と述べています。「弟子たち」と「民衆」、聴衆についての二つの表示をどう理解したらよいでしょうか。ルカは、イエスの説教が、イエスに従っている「弟子たち」に代表される当時のキリスト者と、「民衆」に代表される将来弟子となるすべての人々(=現代に生きる私たち)とのために語られたことを、二つの表示によって示しています。

 貧しい人と神を信頼する人
 「貧しい人々は幸い」と訳されているのは、ギリシア語のプトーコイ(単数形プトーコス)です。70人訳(旧約聖書のギリシア語訳)は、このプトーコスを「貧しい」「弱い」「不運な」という意味の様々なヘブライ語の訳語として用いますが、最も頻繁に現れるのは、アーニーの訳語としての用例です。アーニーは動詞アーナー(圧迫されて身を屈めている)から派生した形容詞であり、次のような意味を持ちます。
 ^鞠されて「貧しい」。生活の苦しさを表す。
◆ゞ盪ちや権力者に圧迫された貧しい者、弱い者。
 経済的な貧しさは背景に退き、貧しいがゆえに人間を頼ることができずに、神を信頼する「貧しく、敬虔(けいけん)な人」。
ぁ,い辰修Δ呂辰りと経済的な貧しさは背景に退き、「謙虚で、へりくだった者」を表す。

 このように、アーニーは単に経済的な困窮(こんきゅう)を表すだけでなく、貧しい生活の中で神を信頼して生きる姿を表す語として用いられます。
 困窮の中で神を信頼する「貧しい人」の叫びを神は必ず聞いて救いの手を差し伸べる、と旧約聖書は励まします(詩編9・13、22・25、イザヤ書66章2節)。
 イエスが「貧しい人々は幸い」と告げたとき、旧約聖書に繰り返し述べられた「神は貧しい人、神を信頼する人を救う」というメッセージを思い浮かべていたに違いありません。
 ギリシア語のプトーコスにはもともと「敬虔な・謙虚な・へりくだった」という意味はありません。しかし、プトーコスの背景にあるヘブライ語(アーニー)の意味を考えると、「貧しい人々は幸い」とは「貧しいことが幸い」という意味ではないことが分かります。「貧しい人はその苦しみゆえに神を信頼するから幸い」なのです。様々な苦しみからの救いを人は求めています。そのとき、人間による解決に頼らずに、神による解放と救いを信じて待つこと、それが最も大きな「幸い」だと、イエスは教えています。

 今日の福音の構成
 幸いな人々(20−23節)と不幸な人々(24−26節)は、原文では同じ構成を持っています。まず「幸い」の言葉では次のようになります。
 20節 幸い……というのは……(現在形の動詞)
 21節a 幸い……、というのは……(未来形の動詞)
 21節b 幸い……、というのは……(未来形の動詞)
 22節 幸い……ときは……人々が
 23節 なぜなら同じように……。

24節以下の「不幸」の言葉でも、上記に示したような同じ構成がとられています。
 イエスは「貧しく、今飢え、今泣き、憎まれて追い出され、ののしられて汚名を着せられている人々」に対して、「あなたがたは幸い」と二人称で呼びかけます(マタイは三人称)が、これは親しみと励ましの心を表すためです。貧しい人々が幸いなのは、「神の国はあなたがたのものである」からですが、ここでは動詞が現在形で書かれています。神の支配(=神の国)は人々が「貧しい」状態にあるとき、すでに始まっているからです。
 さらにルカは21節で「今飢え、今泣いている」というように、「」を加えています(21節と対応する25節をも参照)。これは「今」の状態を根底から変える時がすでに到来しており、「あなたがたは満たされ、笑うようになる」からです。こちらの動詞は未来形が使われています。その完成はまだ先ですが、神が約束するからにはその成就は確実です。
 24節以下で「不幸である」と訳された語は感嘆詞ですから、裁きの宣告ではなく、「ああなんて不幸なのだ」という憐れみの叫びです。「不幸」を呼びかけられるのは「富み、満腹し、笑い、ほめられている」人です。貧しさや飢えをもっと深い次元において癒し、豊かさを与えるのは神だけです。それを知りながら、人間は富に頼る心を捨て切れない現実の中で生きています。

 今日の福音のまとめ
 イエスが二人称で二つのグループ(幸いと不幸)に語り分けたのは、「今」誰の中にもいる「幸いな人」を慰め奮い立たせて、誰の中にもいる「不幸な人」を富ではなく、神への信頼へと招くためです。貧しさが人を幸いに導くのではありません。貧しいがゆえに神にすがることが人を幸いにします。
2022年2月13日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。また、その部分で、スマートフォンでも読みやすくなるよう、各項の終わりに改行を追加しております。
原文どおりのフォント切替やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。