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兄弟の目にある
おが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に
気づかないのか。
まず自分の目から
丸太を取り除け。
―年間第8主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音6章39−45節

 Q資料
 今日の福音はマタイも伝えるイエスの言葉です。ルカではひとまとめにされていますが、マタイでは四つに分けられ、それぞれが別の文脈に入れられています。.襯6章39節→マタイ15章14節、▲襯6章40節→マタイ10章24節、ルカ6章41−42節→マタイ7章3−5節、ぅ襯6章43−45節→マタイ7章16−20節(12章33−35節)、これらの言葉は「Q資料」と名付けられた資料の言葉だと言われています。「Q資料」はいわばイエスの語録集であり、マタイとルカはこれを一つの資料として利用しました。
 「Q資料」が伝えるイエスの言葉は、それぞれが他の言葉とは関連づけられずに、断片的に伝えられていたと推定されています。だからこそ、マタイとルカでは、それぞれ違った文脈に置くことができました。
 今日の福音は、以上の「Q資料」で説明したように、四つの段落に分けられます。

 「盲人の道案内」の譬え(39節)
 この段落でのイエスの言葉は、「盲人が盲人の道案内をすることができようか」、「二人とも穴に落ち込みはしないか」という二つの疑問文です。最初の疑問文は形から見て否定の答えを促す疑問文であり、「道案内をすることができるでしょうか、できはしない」の意味です。二番目の疑問文は肯定の答えを促す疑問文であり、「……穴に落ち込まないだろうか、落ち込む」の意味です。二つの形の疑問文を使うことによって、道案内をする者は目が見える者でなければならないということを強調しています。この譬えは弟子に向けて語られていますから、「盲人」とは弟子のことです。弟子とは一人歩きのできない者のことであり、主イエスの助けなしでは道案内をすることができない者なのです。

 十分に修業を積む(40節)
 ルカにとって、唯一の道案内はイエスであり、またイエスの恵みの言葉です。イエスの弟子となるには「十分に修業を積む」(新共同訳)、「十分訓練を受ける」(新改訳)必要があります。
 「十分に修業を積む」の原語は、「完全にする」(カタルケィゾー)です。このように訳せば、弟子は自分自身の努力によって、師のようにならねばなりません。しかし、この「完全にする」と訳された語は、神を主語とすることの多い動詞です。しかもここでは受動形が使われていますが、これは神が行為の主体であることを示す受動形であり、「神があなたがたを完全にする」と同じ意味だと解釈できます。弟子は確かに修業すべき者ですが、しかしその前に神の恵みの言葉に身を開き、その助けを受け入れる必要があります。こうして修業の道が開かれます。

 「目の中にあるおが屑と丸太」の譬え(41−42節)
 41−42節では、主語は「あなた」に変わり、しかも「なぜ、……どうして……?」と相手に問いかけていますが、これは態度の去就(きょしゅう)を明白にするようにと促し、態度決定を迫るためです。「目の中の丸太」は、人の内面に巣くう闇、つまり神の助けを拒む(こばむ)かたくなさを表す比喩(ひゆ)です。その丸太を取り除くことができれば、その人は「はっきり見える」ようになります。

 「良い木と悪い木」の譬え(43−44節)、「心の倉」の譬え(45節)
 木はその実によって、その良し悪しが分かります。神の助けに身を開き、自分の目の中の丸太を取り除くことができた者は、神によって「良い実」を結ぶ「良い木」に変えられます。その人がどのような木であるかは、その人の語る言葉、行う業から知ることができます。良い木に変えられた者は、良い心の倉を持ち、「良いもの(=良い言葉、良い行い)」を取り出します。良い心の倉から取り出す良いものは人々を豊かに楽しませます。それは、自分自身の努力の前に、神の助けを素直に受け入れることができた人の実りです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は、先週の福音の続きであり、弟子が自分の現実に目を向けるようにと呼びかけ、弟子が師のようになるための道が描かれています。その中心は41−42節の「目の中にあるおが屑と丸太」の譬えです。この譬えを組み立てるキーワードを拾い出せば、「なぜ……どうして……偽善者よ、……取り除け……そうすれば、はっきり見えるようになる……」です。最初の二つの疑問文「なぜ……どうして……」によって、自分の目の中の「丸太」に気づかないでいる偽善が指摘され、次の命令文「取り除け」によって勧告が述べられ、最後の「そうすれば」によって、「丸太」を取り除いたときの結果「はっきり見えるようになる」が語られます。
 この段落は、三人称が主語とする前後の段落と異なり、二人称「あなた」が主語となっており、イエスが弟子たち一人ひとりに(つまり読者である私たち一人ひとりに)力強く呼びかけ、正しい兄弟関係をさとすという形をとっています。
 弟子が道案内をすることができないのは、師イエスの助けを拒んで、盲人のまま歩こうとするからです。私たちが「十分に修業を積む」(原意 完全にする)ためには、まず自分の目にある丸太を認めなければなりません。それを認めた者は神の助けを受け入れた者であり、神の助けによって豊かな実をもたらす者となります。
2022年2月27日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教