印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


キリストの過越秘儀

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 私たちは今、復活祭(今年は4月17日)の準備期間である「四旬節」を過ごしています。
 1.四旬節はキリストの受難と死を思い起こし、それに生きる期間ですが、新約聖書はキリストの受難と死から復活を切り離すことはありません。教会は、受難と復活とを合わせて、これを「キリストの過越秘儀」または「復活秘儀」と名付けています。なぜこの秘儀が重要かと言うと、これこそ神の救いの業の中心であり、教会存在自体もその秘儀に負っているからです。典礼憲章第5条で次のように宣言しています。「人間にあがないをもたら(す)……このみ業は、……キリストの受難……、復活……による過越の秘儀によって成就し、この秘儀によって、……教会が生まれたのである」。
 「受難の苦しみを経て復活の栄光へ」。これは新約聖書全体の教えですが、特に四旬節の主日朗読のテーマとなっています。したがって、教会が四旬節中に勧めている、祈り、施し、断食は、それ自体が目的ではなく、「キリストの過越秘儀により深くあずかる」ということを目的としていることを忘れてはならないのです
 2.イエスが苦しんで死んだという事実は、最初、弟子たちにとってはつまずきであり、理解できない出来事でした。弟子たちはキリストの復活後に初めて受難と死が持つ意味に気づいたのです。その1つは「罪のあがない」です。ユダヤ教の中で続けていた動物を「いけにえ」として献げる祭儀は、神と人間とを結ぶものでした。新約聖書は、キリストの受難と死が「ほふられた小羊」(黙示録5章12節)として「罪のあがない」のための「いけにえ」に模されています。「神はキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う(つぐなう)供え物となさいました。」(ローマ書3章25節)。※「罪を償う(つぐなう)」は人間の行為、「罪をあがなう」は神の行為を指します。
 さらに、「罪のあがない」は「身代金」という意味もあります。キリストの命がお金であり、罪と苦境にあるすべての人を買い戻し、救出した行為であるとします。「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章45節)。
 パウロは「罪のあがない」を「和解」として理解しました。キリストを通して、すべての人が神と結ばれます。敵意にみちた者同士であっても、キリストを通して、この両者が和解し、新しい共同体が生まれます。神の方から人間に「和解」を提供しています。そのしるしとしてのイエスの受難と死があるのです。「キリストは、…… 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ書2章16節)。
 3.そして、「罪のあがない」は、受難(死)と復活を2つの事柄ではなく、「キリストの過越秘儀」すなわち1つのプロセスとしての救いの出来事と理解するとき、イエスの受難と死は単なる「罪のあがない」のための「いけにえ」だけでなく、「神のいのち」が与えられた、つまり、こうして人間はキリストを通して神と結ばれ、神との交わりに生きるようになった、という前向きの理解が加わります。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(ルカ9章23節)。
 4.自分の十字架を背負うとは、日々の日常生活におけるキリストの教えの実行を指します。だから、「キリストの過越秘儀」は、私たちにとって1回限りのことではありません。日々の労苦や犠牲を通して私たちは小さな受難(死)を体験し、それと同時に「神のいのち」にあずかる小さな復活を体験するのです。受難と復活(死んで生きる)。これは新約聖書の本質に属することであり(ヨハネ12章24−25節)、復活祭(今年は4月17日)の準備期間である「四旬節」の過ごし方なのです