印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


悪魔は……
時が来るまでイエスを離れた
―四旬節第1主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音4章1−13節

 1.マタイ版とルカ版のイエスの誘惑の記事の違い

 【マタイ版(4章1−11節)】
・イエスは旧約のモーセと同様に「四十日四十夜断食し」(出エジプト記34章28節)、モーセの行ったようにマナの奇跡の再現を求められます(マタイでは「石」は複数形)。
・マタイでは、第三誘惑ではモーセのようにイエスは「高い山」に導かれ、一瞬のうちに世界の国々とその栄光を示されます(申命記32章49節)。
・第一誘惑では申命記8章3節(モーセがマナの奇跡について言及した箇所。この場合でもマタイは「神の口から出るすべてのことばによる」までを引用)、第二では、渇いたときイスラエルの民が「神を試みた」ことに言及した箇所(申命記6章16節)、そして第三では、カナン入国後、民が受ける偶像崇拝の誘惑に言及した箇所(申命記6章13節)となっていて、全部がモーセとその民の砂漠旅行と関連しています。つまり、イエスは第二のモーセとして登場し、イエスの誘惑は、イスラエルの民のエジプト脱出との関連で物語られているのです。

 【ルカ版(4章1−13節)】
・ルカは上記に対して、イエスは四十日断食し(「夜」は省く)、悪魔は「この石」(一個だけ)をパンにするように求めます。
・ルカは、マタイの第二と第三の順を入れ替え、「高い山」と言わずに「高く引き上げられた」(4章5節)と言います(人間が天地の間に宙づりになるのが、ギリシア的誘惑観)。
・そして13節の結びでは、「悪魔は……時が来るまでイエスを離れた」と明言します。つまりルカの考えによると、イエスの誘惑は、受難の時に受ける誘惑を先取りしたものなのです(22章3節と53節)。
・ルカは、そのためにマタイの順序を入れ替えて、「エルサレム」での誘惑を最後に置いたのです。
・ルカにとって、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ない」(13章33節)からです。ルカの目は、イエスの公生活の初めから、すでにイエスの受難に向けられているのです。

 2.ルカによるイエスの活動の三区分
 ルカ版はマタイ版の第二と第三誘惑の順序を入れ替えています。その理由は、ルカによるイエスの活動の三区分と関連があります。
 パンの誘惑→ガリラヤでの活動(4章14節−9章50節)
 イエスのガリラヤでの活動は、ナザレの説教に示されているように、特に貧しい人に福音をもたらすこと(4章18節)に特徴づけられます。また山麓の説教の冒頭にあるように、貧しい人々、飢えている人々に幸いを(6章20−21節)、打ちひしがれている者、社会からはみ出させられた人々に福音を伝え、彼らを癒すことにガリラヤ活動は集中します。
 こうしてみると、イエスが五つのパンを増やして飢える5千人の人々に与えて満腹させたという、いわゆるパンの増加の伝承(9章10−17節)はイエスのガリラヤ活動の特徴をよく表すものです。したがって、イエスが断食で飢えていたとき、悪魔に、石をパンにして飢えを癒せと試みられたという第一誘惑(4章2−3節)はガリラヤ活動に対応し、悪魔の誘惑は、いわばガリラヤ活動をはじめから台無しにしようとする試みとみなされます。
 世界支配王権の誘惑→エルサレムへの旅路(9章51節−19章27節)
 ルカ福音書の中央部を成すエルサレムへの旅路は「王道の旅」ということができます。
 この旅の始め、イエスの弟子入り志願者(9章57−62節)に対して、イエスに従うことは神の国(神の王的支配)を宣べることであるとされ(9章60節)、旅が終わるとき、イエスは「主の名によって来られる王」(19章38節)としてエルサレムに入ります。
 だからイエスの弟子入り志願に続く七十二人の宣教派遣には「神の国(神の支配)が近づいた」(10章9節、11節)という宣教命令が下り、旅の最終段階でイエスがエルサレムに入る直前には、彼は王位を受けて帰る譬えを話します(19章11−17節)。
 したがって、第二誘惑では、悪魔は全世界の王国を示して、その権威と栄華をイエスに与えようと約束します。ただし条件として、悪魔への礼拝を迫りますが(4章5−7節)、これは、イエスの王道を阻む企てとみなされます。
 エルサレム神殿での誘惑→エルサレムの活動(19章28節−24章53節)
 イエスの活動の最終段階はエルサレムでの活動です。それは神殿における民衆への教えとして総括されています(19章47−48節〜21章37−38節)。そしてイエスの受難と死はエルサレムで完了します。したがって、エルサレム神殿の頂上から飛び降りよとの第三誘惑は、イエスの最期の活動を封じ込めようとするものです。しかし悪魔はあらゆる誘惑に敗北し、時が来る(イエスの受難の時)まで(22章3節)、イエスから離れ去ります。こうして三誘惑はイエスの全活動におけるあらゆる試みの要約ともなっているのです。

 今日の福音のまとめ
 四旬節第一主日にはABC年とも、受洗後直ちにイエスが聖霊によって荒れ野に導かれ、そこで悪魔から試みられ、それに打ち勝った記事が読まれます。洗礼の準備期間として定められた四旬節の初めに、主の誘惑が朗読される一つの理由は、洗礼によって信者一人ひとりが教会を通してこの試練の場、つまり荒れ野に導き入れられ、主を通して導かれる民となるという事実を認識させることです。「誘惑」と訳されるギリシア語ペイラスモスは「試練」という意味もあります。「誘惑」も「試練」も、苦しみを前提にしていますが、苦しみの捉え方が違っています。「誘惑」となってしまえば、その苦しみは神から引き離す力となりますが、「試練」とすることができれば、むしろ神への信仰を告白する機会に変えたことになります。悪魔はイエスを「誘惑」しましたが、イエスは苦しみを「試練」として利用しました。イエスは悪魔の「誘惑」に対し、神の言葉で応じ、それに打ち勝ちました。イエスが教える「誘惑」への対処法は、神の言葉を思い起こすことでした。
2022年3月6日(日)
鍛冶ヶ谷教会 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文冒頭の「マタイ版とルカ版のイエスの誘惑の記事の違い」の部分は、原文(Wordファイル)では四角で囲まれ、左半分にマタイ版が、右半分にルカ版が書かれていますが、これはスマートフォンでは読みにくい上、Web上で四角で囲むのは難しいので、四角で囲まない通常の形にさせていただきました。これに伴い、ルカ版の冒頭の「左記」を「上記」に書き換えております。ご容赦を。
原文どおりのレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。