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来年は実がなるかもしれません
―四旬節第3主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音13章1−9節

 悔い改めの勧め(1−5節)
 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」(1節)という事件の原因は、ローマ支配に対するユダヤ人の反逆行為でした。ただし、この事件についての史実はなく、いつどこで起きたのか、これ以上は不明です。ただしこの記述から読み取れることは、いけにえをささげる場所はエルサレムの神殿だけであり、過越の祭りのときには一般人(ガリラヤ人)もそこに入ることができたので、神殿でこの事件が起こったことが分かります。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」は比喩的(ひゆてき)な表現で、「ガリラヤ人を血祭りにあげた」を意味しますが、殺害時刻といけにえの時刻の同時性を指していると思われます。
 シロアムはエルサレムの東南に丘のある地域で、そこには池がありました(ヨハネ9章7節)。ヒゼキヤ王(列王記下20章20節)はトンネルのような水道を作ってこの池に水を注ぎました。塔はこの水道に沿った所に建てられていました。ピラトはこの水道からの水の補給改善のため、新たに水道を作ったようです。塔が倒れた(4節)というのは、この工事と関係があったかも知れません。
 1−5節では、ピラトによるガリラヤ人虐殺がイエスに伝えられたとき、イエスが語った言葉が2−3節と4−5節のどちらも「……罪深い者だった(からだ)と思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と述べられており、同じことの繰り返しと言えます。この繰り返しの中で最も強く響く表現は「決してそうではない」です。
 当時のユダヤ人は、ある人に不幸が降りかかれば、それはその人の罪のせいだと考えていました。不幸を天罰と見るこの考え方は、ややもすれば、不幸が襲わず平和に暮らす「私」には罪がないということになります。
 しかし、イエスはそのような考え方を否定して「決してそうではない」と言います。二つの可能性があります。”垤にあった人だけが「罪人」なのではなく、あなたたちも掟を完全に守っていないから、同じ「罪人」だ。▲ぅ┘垢療来によって、罪の内実がまったく変わったのだ。罪はイエスを通して赦しを与える神の愛に信頼できないことだ。
 罪がないと思い込んだり、神の愛に信頼せずにいたりすれば、「皆同じように滅びます」(4・5節)。「滅びる」は原文では「滅びるだろう」という未来形ですが、これは終末の時の裁きが念頭に置かれているからです。罪を赦す神の愛に信頼できずに罪に留まるなら、例外なく「皆が同じように」神との決定的な断絶を招くことになります。
 イエスは悔い改めを勧めています。イエスが勧める「悔い改め」は行いを改めることというよりは、イエスにおいて罪を赦した神の愛に気づき、その神のまなざしへと向き直る方向転換のことなのです。

 いちじくの譬え(6−9節)
 パレスチナ地方のぶどう畑には、他の実のなる木、特にいちじくを植えるのが普通で、ぶどうの木をいちじくに結び付けて支えとしました。
 この譬えに登場する「主人」は神であり、「園丁」はイエスと読むことができますが、むしろ、主人と園丁との対照的な態度によって、神の忍耐と葛藤(かっとう)が描き出されています。いちじくの木に実を探すために「もう三年もの間」来ているのに、見つけたためしがないのですから、「切り倒せ」とも考えますが、しかし「来年は実がなるかもしれない」と思えばそれもできません。神は不安と期待が交差する中で、あと一年、あと一年と待ち続けます。この一年を私たちがどのように使うのか、それが問われています。

 今日の福音のまとめ
 第一朗読では、モーセがイスラエルの人々に「あなたたちの先祖の神が、私をここに遣わされた」と言えば、彼らは「その名は一体何か」と問うに違いないけれども、何と答えるべきかと神に尋ねました(出エジプト記3章13節)。そのとき神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)と答え、神ご自身の本質を明らかにしました。
 神のこの言葉を直訳すると、「私は、私があるであろうところの者であるだろう」となりますが、これは「私は常になろうとする者になることができるのであり、何になるかは私が決めることであって、人間が関与できることではない。私はどこでも、誰に対してもなるもの、つまり生きて働くものだ」という意味だと思われます。これが呼び名でないことは明らかです。
 モーセが受けた十戒では「あなたの神の名、主の名をみだりに唱えてはならない」と命じます(出エジプト記20章7節)。神の名を呼ぶことによって神を支配し、人間の意のままにしようとすることは、「わたしはある」という神の本質を否定することにつながるからです。
 イエスはこの神を父(アッバ)と呼び、呼び求める者を見捨てることのない神の本質を、目に見える形で示してくださいました。「アッバ」という言葉は、ほとんど口がきけないような赤ん坊が最初に発する言葉です。つまり、この言葉が意味しているものは、強い信頼関係です。赤ん坊は自分では何も出来ません。ただ最初に世話をしてくれる親にたいしてまったく委ねて「アッバ」と呼ぶことが出来るだけです。
 今日の福音の「いちじくの譬え」では、父なる神の忍耐と葛藤が描き出されています。そこに父なる神の愛が示されています。実がなるとは、この葛藤に気づき、そこに愛を見て、それに信頼することです。この信頼が私たちの行いの原動力となるのです。
2022年3月20日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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