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いなくなっていたのに
見つかったのだ。
喜ぶのは当たり前ではないか。
―四旬節第4主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音
   15章1−3節、11−32節


 愛する父親の譬え
 新共同訳聖書が日本語訳のために用いた底本は、聖書協会世界連盟(UBS)が校訂したギリシア語新約聖書です。校訂(こうてい)……本文を異文と比べること。このギリシア語聖書には英語で表題がつけられており、新共同訳につけられた表題は、この英語の表題の日本語訳をほぼ用いています。
 例えば、ルカ福音書15章1−7節の表題は「『見失った羊』の譬え」であり、15章8−10節は「『無くした銀貨』の譬え」です。これは、UBSのギリシア語新約聖書の表題「The Parable Of the Lost Sheep」と「The Parable Of the Lost Coin」と同じです。
 しかし、15章11節以下は、UBSでは「The Parable Of the Lost Son」ですから、「いなくなった息子の譬え」となるはずですが、新共同訳は「『放蕩息子』の譬え」としています。おそらく、「放蕩息子の譬え」が定着していることが、英訳を採用しなかった理由だと思われます。
 しかし、「いなくなった息子の譬え」と「放蕩息子の譬え」では、譬えを見る視点がまったく異なります。この譬えでは、「いなくなった息子」が戻ったときに、父親から「子ども」として温かく迎えられます。だとすれば、「放蕩息子の譬え」は避けるべきです。
 また、この譬えの中心点は、父親が二人の息子をもっていただけでなく、二人を愛していたのであり、二人を出迎え(20節、28節)、二人に対して寛容なことです(12節、22節、31節)。
 何人かの学者は、11−32節は、二つの譬え(11−24節、25−32節)が合体したという説を述べています。しかし、このような判断は次のことを見逃しています。この譬えは「ある人に息子が二人いた」(11節)で始まっています。ということは、それぞれの息子たちとある人(=父親)の関係を、この物語の要素にしています。これは、弟の譬えでも、兄の譬えでもなく、二人の息子を愛する父親の譬えなのです。弟の譬え(放蕩息子の譬え)としてしかこの物語を見ないならば、兄の場面は付け足しだと考えてしまうことになります。

 寛大さと正義との緊張関係
 今日の福音の譬えは、読者をその―「寛大さと正義との」―緊張関係に引き込んで、それと格闘させます。兄を刺激したのは音楽と踊りです(25節)。もちろん、弟は家に戻ることは許されてもよい。しかし、音楽や踊りのある宴会までひらく必要があるのだろうか。放蕩者に食べ物や水を与えてもよいが、肥えた子牛(23節)を与えるべきではない。この宴会は、放蕩者の罪や悔い改めを否定し、浮かれ騒ぎが行われ、それが兄の正義を刺激します。
 しかし、この譬えは、この譬えそのものの価値の枠組みにおいて一貫しています。「弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」ということが二度言われています(24節、32節)。人間的に考えれば、死より悪い状態はなく、生よりも良い状態はないと考えます。しかし、この二度言われた言葉は、死より悪い状態があります。それは「(父親の前から)いなくなる」ことです。生より良い状態があります。それは「(父親に)見つかる」ことです。この譬えの価値の枠組みに従えばそのように読み取ることができます。

 喜ぶのは当たり前ではないか
 私たちは弟の罪は「放蕩」にあると考えがちです。規範を破る行為を「罪」と考えるからです。この見方に立てば、25節以下に登場する兄は罪のない「正しい」人になります。しかし、この兄は父親の指示(規範)を守っていましたが、我慢して守っていたにすぎず、父親(=神)との真の交わりには気づいていなかったのです。聖書の述べる罪は神との「関係」を破ることにほかなりません。「放蕩の限りを尽くして」(13節)を直訳すれば、「救いの望みなく生きて」となります。ここで大事なのは放蕩の善し悪しではなく、救いにつながらない生き方にあります。
 命の危険に陥ってはじめて弟は、「私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(18節、21節)と気づくことができました。父親(=神)から離れ、父親(=神)との関係を損なったことこそ罪であり、それが死を招いているのです。
 父親は息子の帰りを待ちわびています。「いなくなっていたのに見つかった」。息子を取り戻した父親の喜びは「喜ぶのは当たり前ではないか」という言葉に端的に表れています。

 今日の福音のまとめ
 譬えの後半部(25−32節)には、父親の愛に抗議する兄が登場します。「主日の聖書 高橋重幸著 オリエンス研究所 129頁」は、「神は言葉のなかへ E・シュヴァイツァー著 ヨルダン社 155頁以下」を用いて、次のように解説しています。
 「ここで最も印象的なのは、父親のよるべなさであります。彼は戸の外に立っております。そして彼の息子を招き入れようとする言葉以外の何物をも持っていないのであります。……神は私たちの心を欲しておられるがゆえに、また私たちの愛と喜びとを欲しておられるがゆえに、ただ外に立って私たちを待つということしかおできにならないのであります。
 ……神ご自身が、今日私たちのところへやって来ようとされていることを示す小さな文章、それは父親の最後の言葉であります。『あなたも喜ぶべきなのだ』。……私たちは言うでありましょう。こんな人と、こんな上役と、こんな子どもたちと一緒に喜べ、と言われるのですか、と。しかしそこで神の決定的な問いがやってまいります。それは、一体私たちは神のそばにいようとしているのか否か、という問いであります。この兄は、父親から50cmを離れずに立っていたにもかかわらず、実際には何kmも、……父親から離れていたのであります」。
2022年3月27日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教