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これからは、
もう罪を犯してはならない
―四旬節第5主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音8章1−11節

 教師イエス(1−2節)
 この物語は仮庵祭(かりいおさい)のときの論争(ヨハネ7章10節以下)を中断しているので、ヨハネ福音書の本来の記事ではなく、後(のち)の加筆と考えられています。このことを示すため、新共同訳その他もこの箇所を括弧〔かっこ〕に入れています。事実、この箇所は多くの主要なギリシア語写本になく、また、用語、文体、描写は、ヨハネ福音書よりも共観福音書、特にルカ福音書のそれと似ています。ルカの年(C年)にヨハネのこの箇所が使われるのはそのためだと思われます。共観福音書に見られる「朝早く」、「オリーブ山」、「民衆」、「律法学者たち」、「先生」などの用語は、ヨハネ福音書ではここだけに出てきます。なお、この箇所をルカ21章38節の後(あと)に置いている写本もあります。
 この物語は、当時の教会で姦通者に課せられていた厳しい償い(つぐない)の習慣に反するので、ルカ福音書から取り除かれ、後(のち)に、ヨハネ8章15節「あなたたちは肉によって裁くが、私は誰をも裁かない」という言葉の具体例として挿入(そうにゅう)されたのだろうという説もあります。
 8章1−2節「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く……」は、この物語は最後の受難週における出来事であったことを示しています。夜ごとにイエスは城外に出られて朝に、エルサレム城内に帰って来られるという書き方が共観福音書に見られるからです。
 動詞「教えていた」は「宣べ伝える」と共にイエスの宣教活動を表す言葉です。この言葉は未完了過去形なので、「教え始めた」と訳されています。イエスの使命は神が誰であるかを教え示すことにあります。

 敵対者の罠(3−6節前半)
 姦通を犯した女性が律法学者たちやファリサイ派の人々に引き立てられ、イエスのもとに連れて来られます。彼女を真ん中に立たせてさらし者とし、軽蔑(けいべつ)して「この女」と呼びます。さらにイエスを問い詰め、「律法の中で」は姦通者の石殺しが指示されていますが(申命記22章22−24節)、この律法の規定を「あなたは」どう考えになりますかと尋ねます。
 この問いは実に巧妙な罠(わな)です。イエスは日頃の教えに従って女性を赦せば、モーセの律法に背くことになります。逆に石殺しにせよと言えば、日頃の教えと矛盾し、イエスを偽(にせ)教師と喧伝(けんでん)できます。また当時のエルサレムはローマの支配下にあり、死刑執行権はユダヤ人には与えられていなかったと思われますから(ヨハネ18章31節)、石殺しを命じれば、ローマに訴える口実を得ることができるからです。イエスがどのように答えるにせよ、律法学者たちが仕掛けた罠にかかるはずです。

 イエスの対応(6節後半−7節)
 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始めます。一体、何を書いたのか、と気にする向きもありますが、結局、「分からない」というのが唯一の答えです。
 やがて、イエスは身を起こし、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言います。申命記17章7節は「死刑の執行にあたっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除けねばならない」とあります。イエスはこの申命記の言葉に条件をつけ、「罪の犯したことのない者が」を付け加えます。なぜなら律法の目的は、「あなたの中から悪(=罪)を取り除く」ことにあるからです。イエスは「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」と語ることによって、自分と神との関係に目を向けるようにと促します。

 律法学者たちの対応(8−10節)、
  イエスによる励まし(11節)

 イエスの言葉を聞いた者は、「一人また一人と、立ち去った」と書かれています。各人が、神との関わりを振り返ったことが暗示されています。女性の罪を問うためにやって来た人々は、自らの罪を問いつつ立ち去って行きます。
 イエスは罪を犯した女性に「誰もあなたを罪に定めなかったのか」と語りかけます。女性が「主よ、誰も」と答えると、イエスは5節での律法学者たちの問いに答えて、「私もあなたを罪に定めない」と宣言します。女性はイエスの慈しみに出会い、再びいのちを取り戻します。イエスは「これからは、もう罪を犯してはならない」と励まし、女性を送り出します。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音の前半(3−7節前半)は、罪を起こした女性に対する律法学者たち、ファリサイ派の人々の訴えです。イエスが答えないので、彼らは律法の規定という面だけで女性を訴え続けます。後半(7節後半−11節)は、イエスの答えと女性に対する語りかけです。イエスは、律法学者たちと同じ面で人の罪を見ようとしません。イエスは人間を律法の前ではなく、神の前に立たせ、魂の奥底にスポットライトを当てます。他の人に対する私たちの態度はそこから生じるからです。
 そして、最後には罪を犯した女性とイエスの二人だけが残されます。聖アウグスチヌスの言葉を借りれば、「憐れな者と憐れみ深いかたの二人だけが後(あと)に残された」。イエスは彼女の罪を赦すとともに、「これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)と言って、この女性の心を癒します。彼女はイエスの愛に出会い、それにとらえられ、罪(死)からイエスの愛に応える世界へ移されて、まったく新しい命(生)に生きるようになったのです。
2022年4月3日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教