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父よ、彼らをお赦しください
―受難の主日(枝の主日)C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 今日は受難の主日(枝の主日)であり、受難物語を朗読します。私たちは会衆として、ある時はイエスを否定したペトロの立場になりますし、ある時はピラトのように善悪の決定から逃れる立場になることを意味しています。また、受難の主日(枝の主日)には、A年マタイ、B年マルコ、C年ルカ、そして聖金曜日ヨハネ、毎年二つの福音書の受難物語が私たちに提供されています。そこで、今日の説教ではそれぞれの福音書の受難物語の特徴を述べます。

 マルコ福音書(B年の朗読箇所:
  マルコ15章1−39節)の受難物語

 マタイ福音書(A年の朗読箇所:
  マタイ27章11−54節)の受難物語

 マルコ福音書の受難物語のイエスの姿は、弟子たち(=人間)から見捨てられた孤独のイメージです。ゲッセマネでイエスが祈る間、弟子たちは三回も眠ります。ユダは裏切り、ペトロは呪って(のろって)イエスを知らないと言います。マルコは、弟子たちはすべてを捨ててイエスに従ったと伝えますが、逆に受難物語を読むと、すべてを捨ててイエスから逃げ去ったと感じます。イエスは六時間にわたり十字架にさらされますが、はじめの三時間は人々の侮辱(ぶじょく)、残りの三時間は全地が暗闇に包まれます。自然さえもイエスを捨て去った印象を与えます。十字架上の言葉は、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)です。
 マルコ福音書の受難物語の背景として、マルコの属する教会の信者が厳しい迫害にあっていました。マルコは残忍な殉教に遭遇(そうぐう)した多くの人々を知っていました。そのような厳しい迫害に耐えていた共同体を勇気づける必要がありました。迫害による試練と苦悩は決して挫折ではなく、共同体が背負う十字架(=迫害に耐えること)は、イエスがそうであったように、のちにイエスに従う人々への模範であることを示したかったのです。
 マタイ福音書の受難物語は、基本的にマルコ福音書の伝えた受難物語と同じです。イエスが弟子たちからも会衆からも見捨てられます。ただマタイ福音書では、イエスの死後、地震について報告し、岩が裂け、死人が生き返ると伝えます。弟子たちや会衆が見捨てても、神はイエスを見捨てていない「しるし」が現されています。

 ルカ福音書の受難物語
 (C年の朗読箇所:
  ルカ23章1−49節 今日の福音)

 ルカ福音書の受難物語から受けるメッセージはイエスの癒し(いやし)、赦し(ゆるし)です。マルコ福音書に比べて、ルカは弟子たちに同情的で、ゲッセマネで眠っても一回のみであり、それは悲しみからです。民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは偽(にせ)証人を立てず、三度にわたってピラトはイエスを無実だと認めます。十字架の道では婦人たちの未来が心配され、十字架に付けた人々を赦します「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。回心した犯罪人には楽園を約束します。十字架は癒し、赦しの場となっています。

 ヨハネ福音書の受難物語
 (聖金曜日の朗読箇所)

 ヨハネ福音書の受難物語が伝えるイエスのメッセージは王であるキリストです。聖書の神の名「ヤーウェ」は、日本語直訳では「わたしはある」です。ローマ兵とユダヤ人がイエスを捕らえた時、「わたしである」(ヨハネ18章5節)と語られると、彼らは後ずさりして地に倒れます。ゲッセマネの園では「試練と死の時から救ってください」と祈りません。キレネ人のシモンも登場せず、イエスは自ら十字架を背負います。「ユダヤ人の王」という言葉は、ヘブライ語の他、当時ローマ帝国の主要な言語であるラテン語、ギリシア語で書かれ、ピラトが認めます。イエスは十字架の下(もと)でも孤独ではなく、愛する弟子とイエスの母が立っています。埋葬も王としてふさわしく百リトラばかりの香料に包まれています。
 ヨハネ福音書の受難物語の背景として、ヨハネの属する教会が、迫害、特にローマ帝国からの取調べや罰により死にさらされていた現実がありました。ローマ帝国の絶大なこの世の権力、権威に迫害されていました。「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18章36節)。受難物語を通して、この世のものには何の力もないことをヨハネは伝えているのです。

 受難物語のまとめ
 私たちは生活の中で、マルコ・マタイ福音書のように、イエスと共に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫びたい時があり、イエスがそうであったように、神が私たちの叫びをお見捨てにならないで現実をくつがえしてくださることを信じて生きることがあります。ルカ福音書のように、イエスと共に「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23章34節)と言う時があり、信頼をこめて自分自身をイエスに委ねて苦しみの意味を結び合わせる時もあります。またヨハネ福音書のように、この世の力、そこから出る悪や苦しみは、神のみ前では何の力もないことを理解すべき時もあります。
 受難物語は、ある時は落胆して頭をたれておられるイエスの姿に救いを見ることであり、ある時は赦しのために手を広げておられるイエスの姿に救いを見ることであり、ある時は王であるイエスの姿にこの世のはかなさを読み取ることでもあるのです。
 受難の主日(枝の主日)と聖金曜日には、毎年異なった二つの受難物語が私たちに提供されています。受難物語(特に十字架上のイエスの姿)にそれぞれの意味を見いだし、私たちの信仰生活に活かすことが求められているのです。
2022年4月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 受難の主日 説教

※多忙により、主日の説教の印刷・配布とホームページへの掲載は、4月24日(日)まで休みます。5月1日(日)より開始します。