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あなたがたに
平和(シャローム)があるように
―復活節第2主日C年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
ヨハネによる福音20章19−31節
今日の福音の構成
今日の福音では、19−23節でイエスの顕現(けんげん)がテーマとされ、24−29節ではトマスの信仰告白がテーマとされますが、両者は次の点で類似しています。
〔語句の意味〕 顕現(けんげん)……(復活したイエスが)はっきりとした形で現れること。
(1) 出来事の起こった曜日。「週の初めの日」(19節)とは私たちの言う日曜日ですが、トマスにイエスが現れた日も「八日の後」(26節)、つまり日曜日です。
(2) イエスが弟子たちに語りかける最初の言葉はいずれも「平和(シャローム)」です(19節・26節)。
(3) 出来事が起こった場所。イエスが現れたのは、戸を閉ざした家(19節・26節)です。ただし、19節では戸を閉めた理由を「ユダヤ人を恐れて」と述べますが、26節はそのような理由づけは何もありません。
まず、(1)についてですが、なぜ二つの出来事―そしてヨハネ20章のすべての出来事もそうですが―日曜日に起こったとされるのでしょうか。やはり、初代教会が日曜日ごとに祝った祭儀(使徒言行録20章7節)との関連で考えるのがよいと思います。その場合、ヨハネの意図は教会が日曜日に祭儀を祝うたびに、イエスの復活(顕現)とトマスの信仰告白とを信者に思い起こさせることにあったと言えます。
次にイエスが弟子に呼びかける(2)の「平和(シャローム)」です。シャロームはユダヤ人間のごく普通の挨拶であるのは事実ですが、ここではそれ以上の意味を込めて使っています。そうでなければ、19節以外に21節でも繰り返すのが不自然です。ここでの平和はヨハネ14章27節、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」に約束されている平和です(エゼキエル書34章25節)。
次に(3)の出来事の起こった家の戸が閉ざされていたと言われることです。19節に「ユダヤ人を恐れて」とあるので戸を閉めていた理由のひとつは明らかですが、それに尽きはしません。なぜなら、26節では「戸にはみな鍵がかけてあったのに」と、何の理由も述べずにただ戸が閉ざされている事実だけを述べているからです。こう述べることによってヨハネが意図するねらいは、イエスの復活がいずれ再び死ぬことになるこの肉体への復帰なのではなく、それとは別のからだへのよみがえりであることを示すことです。同時に、望む時に人の目に見ることができ、人の手に触れることのできる体ともなりえるのです。
今日の福音のまとめ
「わたしの主、わたしの神よ」(28節)。トマスは、復活したイエスを目の当たりにしたとき、それまでの疑いを忘れて、復活者のうちに「彼の主」、「彼の神」を見いだします。
旧約聖書における「平和(シャローム)」は宗教的意味合いを持ったものであり、それは状態よりも関係を示すもので、契約関係を伴って用いられます(ヨシュア記9章15節、エゼキエル書34章25節)。そこから旧約の神が契約の神でもあるので、平和が神の賜物と受け取られました(士師記6章24節、ヨブ記25章2節、詩編35・27、122・6)。そして、神の与えられる平和は、祝福と幸せをもたらします(エレミヤ書29章11節、エゼキエル書34章25節、イザヤ書48章18節、54章13節)。
新約聖書における「平和」の持つ語義は、明らかにギリシア語のエイレーネー(平和)ではなく(戦争のない状態など)、神と人との関係及び一致の意味を含み、宗教的な救いを表すものです。「神が信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ書15章13節)。新約聖書の平和は、喜びや信仰と不可分に結びついた状態です。これはただ単に人の内面的(精神的)平和を示すものではありません。
21節でもう一度イエスは「平和」と呼びかけて、父から受けた任務を弟子たちに分け与えます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたに遣わす」。傍線をつけた動詞は現在完了で書かれています。つまり、父がイエスを遣わしたのは過去ですが、今もなお継続しています。そのイエスの任務が弟子たちに分け与えられています。その任務は、イエスから与えられた平和、真の平和をこの世に伝えることです。
さらに弟子たちは息を吹きかけられ、聖霊を受けます(22節)。「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2章7節)。この霊は弟子たちを新たに創造しなおす霊であり、その使命を全うできるようにと与えられた力ですが、と同時に、エゼキエル書36章25−27節に預言された、人を罪から清める霊でもあります。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(エゼキエル書36章25−27節)。こうしてイエスは「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23節)と弟子たちに約束されます。
私たちは日曜日ごとに感謝の祭儀(ミサ聖祭)を祝い、トマスのように「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と信仰告白をするとき、イエスは私たちに「平和(シャローム)」を与え、父からの任務を分け与え(21節)、聖霊を吹きかけて新たに生かし、私たちのうちに生きます(22節)。復活とはそういう私たちの現実なのです。
2022年4月24日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
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