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復活節第3主日C年―
イエスは
「朝の食事をしなさい」
と言われた。
弟子たちは
「あなたはどなたですか」と
問いただそうとはしなかった。
主であることを
知っていたからである。

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音21章1―14節

 今日の福音の構成
 全体の枠(1節と14節)
 イエスは、全く自発的に「自分を現します」(1節)。「現す」(ファネロー)は、顕現するという意味で、復活したイエスの出現についてこの語が用いられているのは、ヨハネではここだけです(他にマルコ16章12節、14節)。14節では同じ動詞が「現された(直訳)」というように受動形で使われています。
 1節と14節は今日の福音の枠となっており、この枠によって示されているように、今日の福音はイエスの三度目の顕現を述べています。

 四つのテーマ(2−13節)
 2−13節は三つの段落に分かれますが、四つのテーマがこの三つの段落(第一段落2−6節、第二段落7−9節、第三段落10−13節)に沿って次のように展開されています。
 テーマ(1) シモン・ペトロの態度
 第一段落 「私は漁に行く」と言った(3節)。
 第二段落 「主だ」と聞くと、湖に飛び込んだ(7節)。
 第三段落 舟に乗り込んで網(153匹もの大きな魚)を陸に引き上げた(11節)。
 テーマ(2) イエスに対する弟子たちの態度
 第一段落 イエスだとは分からなかった(4節)
 第二段落 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った(7節)。
 第三段落 問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである(12節)。
 テーマ(3) 食べ物の有無
 第一段落 彼らは、「(食べる物が)ありません」と答えた(5節)。
 第二段落 魚がのせてあり、パンもあった(9節)。
 第三段落 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた(13節)。
 テーマ(4) 「網」に起こる変化
 第一段落 その夜は何も獲れなかったが、イエスの言葉に促されて網を打ってみた(6節)。
 第二段落 魚のかかった網を引いた(8節)。
 第三段落 多く(153匹もの大きな魚が)獲れたのに、網は破れていなかった(11節)。

 第一段落 イエスだと分からなかった(2−6節)
 シモン・ペトロは「私は漁に行く」と仲間を誘い、一緒に漁に乗り込みます。ここで「行く」と訳された動詞(ヒュパゴー)は「離れる・立ち去る」の意味にもなりますから、ペトロは神やイエスとの関わりを閉じて漁師としての日常生活に「戻る」と宣言したのかも知れません。彼らは早朝まで働きましたが、何も獲れません(3節)。
 復活したイエスとの関わりをまだ持たない彼らは、岸に立つ人を「分からなかった」し、「食べる物」も持っていません(4−5節)。しかし、イエスに促されて、「網」を舟の右側に打つと、網を引き上げることができないほどの大漁に出会います(6節)。不漁から大漁への変化を引き起こしたのは、イエスの言葉です。

 第二段落 「主だ」と言った(7−9節)
 この大漁を目の当たりにした「イエスの愛しておられたあの弟子」は、岸に立つ人がイエスだと気づきます(7節)。愛され、受け入れられているという信頼が、大漁という出来事に込められた「しるし」を見抜く力を与え、指示を与えた人物の正体に気づかせます。
 この弟子は「主だ」とペトロに告げると、裸同然だった彼は上着を巻きつけ、湖に飛び込みました(7節)。復活したイエスとの関わりをまだ持たない「私は漁に行く」ペトロから(3節)、イエスだと聞いて「湖に飛び込んだ」ペトロへと変わります。
 しかし、他の弟子たちは「魚のかかった網を引いて」、舟で陸に戻って来ると(8節)、炭火の上に「魚がのせてあり、パンもある」のを見ます(9節)。

 第三段落 だれも問いただそうとはしない弟子たち(10−13節)
 イエスに「朝の食事をしなさい」と言われた弟子たちは、復活したイエスを気づき、だれも問いただそうとはしませんでした(12節)。このような表現から考えると、網を陸に引き上げる時点では、まだイエスだと気づいていなかったのかも知れません。彼らは獲れた魚に気を取られ、この出来事の指し示す「しるし」を理解できずにいました。しかし、食事に招かれたとき、もはや尋ねる必要がないほど明確にイエスだと分かったのです。

 今日の福音のまとめ
 復活したイエスは肉眼では見ることができません。イエスの愛に出会うとき、復活したイエスに気づきます。最初にイエスに気づいたのは「イエスの愛しておられたあの弟子」であり(7節)、ペトロを除く他の弟子たちが気づいたのも彼らのために準備された食べ物に愛を見たときです(12節)。イエスは弟子たちのもとに「来て」、パンを「取り」、食べ物を「与えます」(13節)。これらの動詞はすべて現在形です。教会が今も行っている祭儀(ミサ)をほのめかしています。イエスが与えるパン(聖体)を食べ、パン(聖体)を与えてくださるイエスの愛に心が向かうとき、私たちのうちに、イエスは復活しています。
2022年5月1日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●太字の小見出しで字がやや小さくなっている部分(テーマ(1)〜(4)の4ヵ所)は、原文(Wordファイル)ではフォントがゴシックだが太字にはなっていない部分であり、フォントがゴシックかつ太字になっている見出しよりも一段下の扱いですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、字をやや小さくすることで代用させていただきました。ご容赦を。
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