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わたしの羊は
わたしの声を聞き分ける。
わたしは、彼らを知っており、
彼らはわたしに従う。
―復活節第4主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音10章27−30節

 聞き従う(27−28節1行目)
 イエスは「わたしの羊」(27節)と言います。「羊」は、家畜としての「羊」、いけにえの動物としての「羊」の意味でも使いますが、ここでは、導き手が必要な私たち人間を指します。人間は、良い羊飼いであるイエスに従う「羊」(ヨハネ10章で12回)として用いられています。
 このような用例の背景には、羊という動物の特性があげられます。羊は自分からえさを探すことができず、常に野獣や強盗の危険にさらされていますから、牧草地に導いて養い、さまざまな危険から保護し、自分の命を支えてくれる「羊飼い」を必要とする動物だからです。
 イエスは「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える」(27−28節1行目)と言います。「羊」に求められていることは「聞く」ことと「従う」ことです。そして、その目標は「永遠のいのちを与える」ことにあります。
 「永遠のいのち」は「永続する生命」といった意味合いを含みますが、ヨハネにとって大事なことは、永遠である神と触れているという要素です。「永遠のいのち」とは、人間がその生涯の中で神に支配されて生きるときに得る「いのち」のことです。私たちは、イエスを通して神に触れるとき、生命が刷新され、新たな真実の「いのち」が与えられるのです。

 手から奪うことはできない
  (28節2行目−29節)

 「永遠のいのち」が与えられた者は決して滅びることがありません。「わたしの手」(28節)と「父の手」(29節)が守り、手放さないからです。詩編95・7では「主(しゅ)はわたしたちの神、わたしたちは主の民。主に養われる群れ、御手(みて)の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」と言われています。神は自らの手で羊を養い、「強い手」をもってこれをエジプトから導き、いたわり、聞き従う者の上に偉大な業を行われるのです(イザヤ書41章20節、出エジプト記3章19節、出エジプト記15章6節など)。このような「手」は神の愛と力を示しています。
 「奪う」(28節・29節)が二度繰り返されているように、羊は常に奪われる危険にさらされています。羊は自分を守る手だてを持たない弱い動物です。それでも羊が奪われないのは、イエスと御父が愛と力によって守っているからなのです。

 わたしと父とは一つ(30節)
 イエスは「わたしの羊」を力と愛をもって守ります。イエス自身「父と一つ」なので、父ご自身からその力と愛とを受け、良い羊飼いとして私たちに通じてくださるのです。

 今日の福音のまとめ
 復活節の第4主日には、A年もB年もC年も「よい牧者」のたとえ話が読まれますので、この主日は「よい牧者の主日」と言われています。また、「世界召命祈願の日」でもあります。
 今日の福音が語られたのは、神殿奉献記念祭のときでした。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた」(22節)。神殿奉献記念祭は、現在のユダヤ教のハヌカーの祭で、バビロン捕囚から帰った人々が第二神殿を再建して奉献した日が憶えられ、更にマカバイの独立運動の際にシリア王アンティオコス四世エピファネスによって汚された神殿がもう一度再奉献されたことの記念祭です。
 ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりとそう言いなさい」(24節)と質問をしたとき、イエスが指摘したのは彼らの不信仰です。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている。しかし、あなたたちは信じない。……わたしの羊ではないからである」(25−26節)。今日の福音では、イエスは「メシア」という用語を使ってはいませんが、父と一つだと断言することによって(30節)、イエスを取り囲んだユダヤ人たちにメシアであることを示します。
 また、ヨハネの福音書が編集された頃、ユダヤ教徒はキリスト教を異端と宣言し、キリスト者を会堂から排除しました。このような処置は、ヨハネの教会共同体内部に動揺を引き起こしました。ヨハネの教会共同体は、教会とは何か?ということを考え、再建する必要が生じたのです。
 ヨハネの教会共同体のこのような状況がある中で、今日の福音は神殿奉献記念祭のときに語られます。今日の福音は、教会とは、良い羊飼いであるイエスの声に聞き従う羊の群れであることを宣言します(27節)。教会は、イエスをキリストと信じ、キリストに聞き従い、キリストにあって永遠のいのちを受ける者たちの新しい共同体として、神の手によって聖別され、再建されたのです。
 イエスは「わたしと父とは一つである」(30節)と言います。そのことを、イエスは業によって(行動によって)証しします。今日の福音が、私たちに求めていることは、羊飼い(イエス)に聞き従い、それを行動によって証しすることです。そして「羊飼いに聞き従う」を行動によって証しするということを、個人的な意味だけではなく、共同体的意味、教会的意味としても捉えていきましょう。そのとき、私たちの教会共同体は、神の手によって、ますますキリストの教会共同体として聖別され、再建されるのです。
2022年5月8日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教