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今や、人の子は栄光を受けた。
神も人の子によって
栄光をお受けになった。
神が人の子によって
栄光をお受けになったのであれば、
神も御自身によって
人の子にお与えになる。
―復活節第5主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音13章31−35節

 ヨハネ福音書は、「序文」(1章1−18節)のあと、第一部「しるしの書」(1章19節−12章50節)、第二部「栄光の書」(13章1節−20章31節)、「結び」(21章1−25節)に分かれています。今日の福音は、13章1節から始まる「栄光の書」に属します。
 「さて、過越祭の前のことである。イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。……」(13章1−2節)。「栄光」の「時」とは、ここで言われている「この世から父のもとへ移る御自分の時」のことです。これは具体的に、受難・死・復活による「あがないの業(わざ)」を指します。
 「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(13章30節)。ユダが裏切るために出て行ったとき、イエスは「今や人の子は栄光を受けた」(13章31節)と宣言します。イエスは裏切られ十字架にかけられますが、それはイエスに「栄光」が現されるときなのです。「栄光を受けた」と宣言したときにイエスがなさったことは、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」ことでした(13章1節)。「この上なく愛し抜かれた」の、「この上なく(究極まで)」という表現は、イエスが十字架上で息を取られる直前に口にされた、「成し遂げられた」(19章30節)という語と語幹が同じですので、イエスの十字架上の死(=栄光)が、「極みまでの愛」の実現であったことを示しています。
 また、ヨハネ福音書13章31節−16章33節は「告別説教」とも呼ばれ、イエスは十字架上の死を前にして弟子たちに語ったとされています。今日の福音は別離を予告する33節をはさんで、前半(31−32節)では栄光を語られ、後半(34−35節)ではイエスの愛を土台とする相互愛が語られます。この栄光と愛がイエスとの別離を乗り越える力となります。

 行き交う栄光(31−32節)
 イエスは「今や、人の子は栄光を受けた」(31節)と宣言します。受動形「栄光を受けた」が使われていますが、これは神が動作の主体を婉曲的(えんきょくてき 意味……遠回しに言う)に表す受動形ですから、神がイエスに栄光を与えたことになります。
 これに続いて「神も人の子によって栄光をお受けになった」(31節)と述べています。神がイエスに栄光を与え、そのイエスにおいて神が栄光を受けます。いわば栄光が神とイエスの間を行き交っています。ちなみに、31節の二つの「栄光を受けた」はいずれもアオリスト形(過去の動作の事実性を強調する時制)です。
 神とイエスの間を行き交う栄光は32節でも述べられています。「栄光をお与えになる」と「すぐにお与えになる」です。これらは未来形で書かれていますから、32節の栄光は将来に現されるはずの栄光です。
 この31節と32節の時制の不一致は次のように説明することができます。告別説教が語られた時点に基準を置くと(32節)、十字架とその栄光はまだ未来のことですが、福音書を書いている時点から見ると(31節)、それは実現した出来事です。ヨハネ福音書では、この二つの視点を混じり合わせながら、叙述が進められてゆきます。神はイエスの生涯を通してイエスの栄光を現し、イエスは神への従順によって神の栄光を現しました。十字架上の死はこの互いに行き交う「栄光」の頂点とされています。

 新しい掟(34−35節)
 隣人愛はモーセの律法に見られますが(レビ記19章18節)、イエスが与える掟には、まったく新しい意味があります。それは、互いに愛し合うべきことの理由が「わたしがあなたがたを愛したように」(13章34節)と、イエスを根拠として示されていることです。「新しい掟」の権威の根拠はイエスです。「互いに愛し合う」ことは新しくありません。十字架に自分のいのちを投げ出すほどに「あなたがたを愛した」イエスに根拠を持つ新しさなのです。
 「互いに愛し合いなさい」という教えに対して、私たちはそのように努力しますが、だいたいは自分の無力さへの失望で終わります。イエスが「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのは、イエスの愛を忘れて、自分の力だけで愛し合おうと努力しても限界があるからかも知れません。イエスの愛に目を向けるとき、自分の力を超えた力を受けるということなのでしょう。

 今日の福音のまとめ
 辞典で「栄光」を引くと、々いを表す光。輝かしい誉れ(ほまれ)。光栄。キリスト教で、神の顕現・臨在を表すのに用いる語。私たちが「栄光」といえば、普通には,鉢△里呂困任后31節の「今や、人の子は栄光を受けた」は十字架上の死を示すので、,鉢△琉嫐とは合いません。しかし、△痢峙韻しい誉れ」というとき、誰の目から見た誉れなのでしょうか。人間の目から見ての「誉れ」であれば、十字架上の死はどう考えても「誉れ」にはなりません。しかし、神の目から見る「誉れ」と同じでないとすれば、十字架上の死も「輝かしい誉れ」にもなります。人の子は人々によって十字架にかけられ、殺されましたが、神はそれを利用して、すべての人の罪を取り除く「あがないの業」を行いました。それを知る人の子は十字架を拒まずに受け取りました。こうして、人の子は神の誉れ(栄光)を現し、神は人の子に神の誉れ(栄光)を与えることになります。
2022年5月15日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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